山信田善宣(やましだ・よしのぶ)監督は、秋田県立横手高校硬式野球部を率いる高校野球指導者です。
2026年夏、横手高校を1969年以来57年ぶり2回目となる夏の甲子園出場へ導いたことで、全国的にも名前が知られるようになりました。
しかし、山信田監督は突然現れた指導者ではありません。
自身も秋田県内で高校野球を経験し、東京学芸大学へ進学。
大学卒業後は高校教員となり、能代西高校、大曲農業高校太田分校、湯沢高校など秋田県内の学校で長年にわたって野球部を指導してきました。
さらに高校野球の現場だけでなく、社会人野球の強豪・日本新薬での研修や、秋田県教育委員会の指導主事も経験しています。
2022年に横手高校へ赴任し、野球部監督に就任。
そして就任5年目の2026年夏、長い指導者人生で初めて甲子園への切符をつかみました。
本記事では、山信田善宣監督の出身高校・大学、現役時代、これまでの指導歴、日本新薬での研修、教育者としての顔、横手高校でのチームづくりについて詳しく紹介します。
| 名前 | 山信田 善宣 |
|---|---|
| 読み方 | やましだ よしのぶ |
| 年齢 | 49歳(2026年夏時点) |
| 出身地 | 秋田県 |
| 出身中学 | 旧中仙町の中学校 |
| 出身高校 | 秋田県立角館高等学校 |
| 出身大学 | 東京学芸大学 |
| 現役時代 | 内野手としてプレー |
| 主な指導歴 | 能代西高校、大曲農業高校太田分校、湯沢高校、横手高校など |
| その他の経歴 | 日本新薬で教員長期社会体験研修、秋田県教育委員会保健体育科指導主事 |
| 横手高校赴任 | 2022年 |
| 主な実績 | 2026年、横手高校を57年ぶり2回目の夏の甲子園へ導く |
「山信田」という名字を初めて目にした人は、読み方に迷うかもしれません。
山信田善宣監督の名字は、
「やましだ」
と読みます。
名前は「よしのぶ」です。
したがって、フルネームは、
山信田善宣(やましだ・よしのぶ)
となります。
山信田監督は2026年夏の甲子園出場決定時に49歳と報じられています。
高校野球の指導歴は20年以上に及ぶベテランです。
山信田監督自身も秋田県の高校球児でした。
高校は秋田県立角館高校へ進学しています。
1993年夏の角館高校の登録選手記録には、2年生の「山信田善宣」の名前が確認できます。
当時の出身中学として「中仙」と記録されており、現在の大仙市周辺で育ったとみられます。
角館高校は現在も秋田県高校野球の有力校の一つです。
2014年には夏の甲子園へ初出場していますが、山信田監督の高校時代には甲子園出場を果たしていません。
つまり山信田監督自身は、甲子園常連の私立強豪校で高校野球を経験した人物ではありません。
秋田県の県立高校で野球に取り組み、その後、同じような環境にある県内の公立高校を長く指導してきました。
この点は、山信田監督の指導者としての経歴を理解するうえで重要です。
角館高校卒業後、山信田監督は東京学芸大学へ進学しました。
東京学芸大学は東京都小金井市にある国立大学で、教員養成の伝統を持つ大学として知られています。
山信田監督も大学で野球を続けました。
東京新大学野球リーグの記録には、1997年当時、東京学芸大学の3年生として「山信田善宣」の名前が残っています。
出身校は角館高校。
右投げ左打ちの選手として登録されていました。
大学でも主に内野手としてプレーしたとされています。
山信田監督が東京学芸大学でプレーしていた時期には、後にプロ野球の横浜ベイスターズなどで活躍する加藤武治投手も在籍していました。
加藤投手は山信田監督の1学年下にあたります。
東京学芸大学はプロ野球選手を大量に送り出すような大学野球の超強豪校ではありません。
教員を目指しながら野球にも真剣に取り組む学生が多い環境です。
山信田監督自身も、大学卒業後はプロ野球選手ではなく高校教員の道へ進みました。
東京学芸大学卒業後、山信田監督は秋田県へ戻り、高校教員として勤務するようになります。
そして高校野球の指導者としての長いキャリアが始まりました。
2026年時点で野球指導歴は20年以上。
一つの高校だけを長期間率いてきた監督ではなく、秋田県内のさまざまな学校で選手を指導してきた点が特徴です。
山信田監督の指導歴で確認できる学校の一つが、能代西高校です。
能代西高校はその後の学校再編を経て、現在は能代科学技術高校となっています。
山信田監督は若い時期から能代西で高校野球部を指導しました。
まだ30歳前後だった頃から、すでに監督としてチームを率いていたことになります。
高校野球の監督は、単に練習を教えるだけではありません。
選手起用、投手交代、大会登録、保護者との関係、学校生活、進路指導など、多くの仕事を担います。
若いうちから監督を経験したことは、その後の指導者人生において大きな財産となったでしょう。
山信田監督の経歴で非常に興味深いのが、社会人野球の強豪チームで研修を経験していることです。
2007年度、秋田県教育委員会が実施していた「教員長期社会体験研修派遣事業」の対象者となりました。
当時の所属は能代西高校。
研修先は、
日本新薬
でした。
期間は約3カ月です。
日本新薬硬式野球部は京都市を拠点とし、都市対抗野球や社会人野球日本選手権に何度も出場している社会人野球の強豪です。
高校野球とは選手の年齢も身体能力も違います。
企業チームでは、高校・大学野球を経験してきたトップレベルの選手がプレーしています。
そうした環境で、
練習方法
トレーニング
試合への準備
選手とのコミュニケーション
組織づくり
などを間近で学べたことは、山信田監督にとって貴重な経験だったと考えられます。
高校野球だけを見続けるのではなく、社会人野球の現場から指導方法を学ぶ機会を経験した指導者です。
能代西高校で指導した後、山信田監督は大曲農業高校へ異動します。
2011年の教職員異動記録では、能代西高校から大曲農業高校へ異動したことが確認できます。
その後、大曲農業高校太田分校の野球部監督を務めました。
太田分校は大規模な野球部ではありません。
部員数が限られる中で高校野球に取り組む学校でした。
強豪校の監督には、多くの選手の中からメンバーを選ぶ難しさがあります。
一方、少人数の野球部にはまったく別の難しさがあります。
一人がけがをすればチーム編成そのものに影響する。
練習相手が足りない。
紅白戦ができない。
ポジションを兼任しなければならない。
そうした環境では、「今いる選手をどう伸ばすか」がより重要になります。
太田分校を率いた経験は、山信田監督の選手育成の幅を広げたと考えられます。
その後、山信田監督は秋田県立湯沢高校でも野球部を率いました。
湯沢高校も県南地区を代表する歴史ある県立高校で、進学にも力を入れている学校です。
山信田監督は長年、
野球だけを行う環境ではない公立高校
で選手を指導してきました。
これは現在の横手高校にも共通しています。
横手高校は秋田県内有数の進学校です。
選手は野球と同時に勉強にも高いレベルで取り組まなければなりません。
山信田監督は、そうした学校でチームをつくる難しさを以前から経験していました。
山信田監督は高校野球部の監督だけを続けてきたわけではありません。
2020年には湯沢高校から秋田県教育委員会へ異動しました。
保健体育分野の指導主事を務めています。
指導主事は、学校の先生を指導・支援する立場です。
授業研究や教員研修などにも関わります。
つまり山信田監督は、
選手を指導する先生
だけでなく、
先生を指導する教育行政側
も経験したことになります。
高校野球監督としては珍しい経歴の一つでしょう。
山信田監督の現在の指導を考えるうえで重要なのが、この教育者としてのキャリアです。
高校野球ではどうしても、
勝ったか負けたか
甲子園へ行ったか
何人プロ野球選手を出したか
という結果に注目が集まります。
しかし高校野球部の選手は、まず高校生です。
選手として成長するだけでなく、一人の人間として成長する必要があります。
山信田監督は教員として長年生徒と向き合い、さらに教育委員会で指導主事を経験しています。
野球技術だけに偏らない指導の背景には、こうした経歴があります。
2022年、山信田監督は秋田県教育委員会から横手高校へ異動しました。
同時に硬式野球部の指導に携わります。
横手高校は1898年創立の県立校。
秋田県南地区を代表する進学校として知られています。
大学進学を目指す生徒が多く、野球部員も学業との両立が欠かせません。
山信田監督にとって、これまで積み重ねてきた経験を生かせる学校でもありました。
横手高校では野球部だけでなく、保健体育の授業も担当しています。
2023年度の横手高校の公開研究授業では、山信田監督が「器械運動(マット運動)」の授業を担当しました。
そこで山信田監督が重視していたのが、
「生徒の自発的な活動」
でした。
基本を教えた後は、生徒が自分で考えながら取り組めるよう、声かけや学習環境を工夫していることを報告しています。
この授業での考え方は、野球指導にも通じるものがあります。
監督から命令されたことだけを行う。
先生が見ている時だけ一生懸命やる。
それでは、本当の意味で自立した選手にはなりません。
自分には何が足りないのか。
どんな練習が必要なのか。
試合中に何が起きているのか。
自分はチームのために何ができるのか。
選手自身が考える力が必要です。
進学校である横手高校の選手たちにとっても、この「考える力」は大きな武器となります。
横手高校には、全国的な私立強豪校のように多数の野球特待生を集める環境があるわけではありません。
練習だけに一日の大半を使うこともできません。
だからこそ重要になるのが、
限られた時間をどう使うか
という考え方です。
山信田監督自身も2026年夏の甲子園出場決定後、「限られた中でやるべきことをしっかりやる」という考えを語っています。
長時間練習することそのものを目的にするのではなく、何のためにその練習をするのかを考える。
横手高校のような進学校に合ったチームづくりといえるでしょう。
山信田監督のチームには、伝統的に守備や投手力を重視する傾向が見られます。
2026年の横手高校も、その象徴的なチームでした。
投手を中心に守り、少ないチャンスを得点へつなげる。
大量得点だけを前提とせず、接戦になっても我慢する。
高校野球は一発勝負です。
打線が毎試合好調とは限りません。
打てない試合でも守備が崩れなければ、勝つ可能性は残ります。
山信田監督の采配で特徴的なのが、選手への信頼です。
投手が苦しい状況になった時にも、すぐ交代させるのではなく、本人の気持ちや状態を見ながら任せる場面があります。
もちろん監督には勝敗への責任があります。
しかし、選手が納得してプレーできることも高校野球では重要です。
監督がすべてを支配するのではなく、選手自身が責任を持って戦う。
そうした関係づくりが、横手高校の粘り強さにつながっています。
2026年夏には、苦しい試合で選手たちの雰囲気が沈んだ際、山信田監督が選手へ表情を変えるよう促したエピソードも注目されました。
技術的な指示ではありません。
苦しい時に下を向けば、さらにチーム全体の雰囲気が悪くなる。
まず顔を上げる。
前向きな表情をつくる。
そこからもう一度試合に入る。
長年高校生を指導してきた山信田監督らしい声かけといえます。
2026年夏の秋田大会を制した後、山信田監督が語った言葉の中で印象的なのが、対戦校への感謝です。
大会を通じて強い学校と戦ったことで、選手たちが成長したという考えを示しました。
高校野球では相手校は「敵」ですが、同時に自分たちを成長させてくれる存在でもあります。
勝った側が相手への敬意を忘れない。
これも教育者として長年高校生と向き合ってきた山信田監督らしい姿勢でしょう。

そして2026年夏。
山信田監督は就任5年目で横手高校を秋田県代表へ導きました。
横手高校が夏の甲子園へ出場するのは、1969年以来57年ぶり。
学校史上2回目です。
山信田監督自身も、高校野球指導歴20年以上で初めての甲子園となりました。
長年、秋田県内の公立高校で選手を指導してきた指導者が、49歳で初めて甲子園の監督となったことになります。
今回の甲子園出場を語るうえで重要なのは、地方大会の一試合一試合のスコアよりも「57年間」という時間でしょう。
1969年の初出場以降も、横手高校野球部には何世代もの選手、監督、OBがいました。
甲子園を目指しても届かなかった世代が数多くあります。
2026年のチームだけで突然57年の歴史が始まったわけではありません。
過去の選手や指導者が積み重ねてきたものを引き継いだうえで、山信田監督と現在の選手たちが甲子園への扉を開いたといえます。
山信田監督は、57年ぶりの甲子園出場を決めても、それだけをゴールとは考えていません。
目標は、
「甲子園へ行くこと」ではなく「甲子園で勝つこと」
です。
久しぶりの出場だから記念参加でよいという考えではありません。
地方大会を勝ち抜いた秋田県代表として、全国の強豪に挑みます。
2026年夏の甲子園で、横手高校は福井県代表・敦賀気比高校と対戦します。
試合は8月11日の第1試合に予定されています。
敦賀気比は春のセンバツ全国優勝経験もある全国屈指の強豪校です。
一方の横手高校は57年ぶりの出場。
甲子園経験では大きな差があります。
しかし山信田監督は、長年さまざまな環境の高校を指導し、社会人野球や教育行政まで経験してきました。
初めての甲子園監督とはいえ、指導者としての経験は非常に豊富です。

山信田監督は、監督からの指示だけで動くチームではなく、選手自身が考えられる集団を目指しています。
限られた練習時間だからこそ、自分に何が必要なのかを理解して取り組むことが重要です。
打撃には好不調があります。
しかし守備と投手力が安定していれば、接戦でも勝機を残せます。
派手さよりも粘り強さを大切にする野球です。
高校生だからと監督がすべてを決めるのではなく、選手本人の考えや気持ちも大切にします。
自分で決断した経験は、高校卒業後の人生にも生きてきます。
横手高校は進学校です。
野球だけできればよいという環境ではありません。
勉強にも本気で取り組みながら、野球でも高い目標を目指す。
その両立の中で身につけた時間管理や考える力も、試合で生きてきます。
山信田監督は保健体育の教員であり、教育委員会の指導主事も経験しました。
そのため野球の勝敗だけで選手を評価する指導者ではありません。
自分で考える。
仲間と協力する。
苦しい場面で逃げない。
相手を尊重する。
こうした経験を通して高校生を成長させることも、野球部活動の大きな目的と考えられます。
| 時期 | 経歴 |
|---|---|
| 中学時代 | 秋田県旧中仙町周辺で野球に取り組む |
| 高校時代 | 秋田県立角館高校野球部でプレー |
| 高校卒業後 | 東京学芸大学へ進学し、硬式野球部でプレー |
| 大学卒業後 | 秋田県の高校教員となり、高校野球指導者の道へ |
| 2000年代 | 能代西高校などで野球部を指導 |
| 2007年度 | 秋田県教育委員会の教員長期社会体験研修で日本新薬へ派遣 |
| 2011年 | 能代西高校から大曲農業高校へ異動 |
| 2011~2012年頃 | 大曲農業高校太田分校野球部監督 |
| その後 | 湯沢高校野球部監督などを務める |
| 2020年 | 湯沢高校から秋田県教育委員会へ異動 |
| 2020~2021年度 | 保健体育科の指導主事として県内の学校教育に携わる |
| 2022年 | 横手高校へ赴任し、硬式野球部監督に就任 |
| 2026年夏 | 横手高校を57年ぶり2回目の夏の甲子園へ導く |
| 2026年8月 | 指導歴20年以上で監督として初めて甲子園へ |
「やましだ・よしのぶ」と読みます。
2026年夏の甲子園出場決定時に49歳と報じられています。
秋田県立角館高校です。
高校時代も野球部に所属していました。
東京学芸大学です。
大学でも硬式野球部でプレーしました。
内野手としてプレーしたとされています。
右投げ左打ちの選手でした。
20年以上あります。
能代西高校、大曲農業高校太田分校、湯沢高校などでの指導を経て、現在は横手高校を率いています。
はい。
ただし日本新薬の社員や社会人野球選手だったわけではありません。
2007年度に秋田県教育委員会の「教員長期社会体験研修派遣事業」により、約3カ月間、日本新薬で研修しました。
はい。
湯沢高校から秋田県教育委員会へ異動し、保健体育科の指導主事を務めました。
その後、2022年に横手高校へ赴任しています。
2022年からです。
2026年夏が就任5年目にあたります。
2026年夏が初めてです。
高校野球指導歴20年以上で初の甲子園出場となりました。
57年ぶりです。
前回は1969年夏で、2026年が学校史上2回目の夏の甲子園出場となりました。
福井県代表の敦賀気比高校です。
8月11日の第1試合で対戦する予定です。
山信田善宣監督は、秋田県出身の高校野球指導者です。
角館高校で高校野球を経験し、高校卒業後は東京学芸大学へ進学。
大学でも野球を続け、卒業後は秋田県の高校教員となりました。
その後20年以上にわたり、秋田県内の高校野球に携わってきました。
能代西高校では若くしてチームを指導し、2007年度には秋田県教育委員会の長期社会体験研修によって社会人野球の強豪・日本新薬で約3カ月間学びました。
その後、大曲農業高校太田分校、湯沢高校などで監督を歴任。
大規模な野球部だけでなく、部員数の少ない学校や進学校など、異なる環境で高校生を指導してきました。
さらに2020年からは秋田県教育委員会で保健体育科の指導主事を経験。
野球の監督という枠を越えて、教育そのものに深く関わってきた指導者です。
2022年に横手高校へ赴任。
県内有数の進学校で、野球と勉強を両立しながら甲子園を目指すチームづくりを進めました。
横手高校での体育の授業でも、生徒が自発的に活動できる環境をつくることを重視しています。
監督が一方的に答えを与えるのではなく、自分で考え、自分で行動できる人間を育てる。
その考え方は野球部の指導にも通じています。
そして2026年夏。
横手高校は57年ぶり2回目となる夏の甲子園出場を決めました。
山信田監督にとっても、20年以上に及ぶ指導者人生で初めての甲子園です。
ただし山信田監督が目指しているのは「57年ぶりに甲子園へ行った」という記念だけではありません。
目標は甲子園で勝つこと。
2026年8月11日の初戦では、全国優勝経験を持つ福井代表・敦賀気比と対戦します。
角館高校の一球児から東京学芸大学へ進み、秋田県内のさまざまな学校を指導し、日本新薬で社会人野球を学び、教育委員会の指導主事も経験した山信田善宣監督。
その長い指導者人生で積み上げてきた経験が、横手高校の57年ぶりの甲子園につながったといえるでしょう。