
睡眠研究の世界的権威として知られる柳沢正史(やなぎさわ・まさし)氏が、2026年9月に大きな注目を集めています。
きっかけとなったのは、2026年9月9日に発表された「アルバート・ラスカー基礎医学研究賞」の受賞です。
柳沢氏は、スタンフォード大学の睡眠研究者エマニュエル・ミニョー教授とともに同賞を受賞しました。
評価されたのは、脳内で覚醒を維持する重要な神経ペプチド「オレキシン」の発見と、オレキシンが不足するとナルコレプシーという睡眠障害を引き起こすことを解明した研究です。
ラスカー賞は医学・生命科学分野で世界的に権威の高い賞の一つで、過去の受賞者から多数のノーベル賞受賞者が出ていることから、しばしば「ノーベル賞の登竜門」とも呼ばれます。
実は柳沢氏は、オレキシンだけを発見した研究者ではありません。
大学院生だった20代のころには、血圧調節などに関係する「エンドセリン」を発見して世界的に注目され、その後アメリカへ渡って研究室を率いました。
エンドセリンとオレキシンという、医学史に残る二つの重要な生理活性物質を発見し、しかも両方が新しい医薬品の開発につながったという非常に珍しい経歴を持つ研究者です。
この記事では、柳沢正史氏の学歴、研究者としての経歴、エンドセリンとオレキシンの発見、そして2026年のラスカー賞受賞までを詳しく紹介します。
| 氏名 | 柳沢正史(やなぎさわ まさし) |
|---|---|
| 生年月日 | 1960年5月25日 |
| 出身 | 東京都 |
| 年齢 | 66歳(2026年9月現在) |
| 出身校 | 武蔵中学校・高等学校、筑波大学医学専門学群 |
| 学位 | 医学博士 |
| 専門 | 神経科学、睡眠科学、分子生物学、薬理学 |
| 現在の主な所属 | 筑波大学 国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長・教授 |
| 代表的な発見 | エンドセリン、オレキシン |
| 主な受賞 | 紫綬褒章、慶應医学賞、文化功労者、ブレークスルー賞、ラスカー基礎医学研究賞など |
柳沢正史氏は1960年5月25日、東京都生まれです。
中学・高校は東京都練馬区にある私立の武蔵中学校・高等学校で学び、その後、筑波大学医学専門学群へ進学しました。
柳沢氏の父親も医学に関係する研究をしており、柳沢氏自身も幼いころから自然科学に強い興味を持っていたといいます。
大学では医学を学びましたが、患者を直接診療する臨床医よりも、病気の仕組みそのものを明らかにする基礎医学の研究に強く引かれていきました。
1985年に筑波大学医学専門学群を卒業。
そのまま筑波大学大学院医学研究科へ進み、研究者としての道を歩み始めます。
柳沢氏の研究者人生を大きく変えた最初の発見が、エンドセリン(Endothelin)です。
大学院生だった1987年ごろ、血管の内側を覆っている血管内皮細胞が作り出す物質について研究していました。
研究を進めた結果、非常に強力に血管を収縮させる21個のアミノ酸からなるペプチドを発見します。
これが「エンドセリン」です。
研究成果は1988年、世界的な科学誌「Nature」に掲載されました。
柳沢氏は当時まだ20代の大学院生でした。
エンドセリンは血管の収縮や血圧調節などに深く関与する重要な物質で、この発見は世界の医学・薬理学研究者から大きな注目を集めました。
その後の研究によってエンドセリン受容体の仕組みも明らかになり、エンドセリンの作用を抑える薬は肺動脈性肺高血圧症などの治療に利用されるようになります。
つまり、柳沢氏が大学院生時代に行った基礎研究が、後に実際の患者を治療する薬へと結びついたことになります。
柳沢氏は1988年に筑波大学大学院医学研究科博士課程を修了し、医学博士号を取得しました。
1989年には筑波大学基礎医学系薬理学講座の講師となります。
そして1991年には京都大学医学部薬理学第一講座の講師となりました。
しかし、同じ1991年、柳沢氏の研究人生をさらに大きく変える転機が訪れます。
エンドセリンの発見は海外でも非常に高く評価されました。
柳沢氏の研究に注目したのが、米国テキサス大学サウスウェスタン医学センターの研究者たちでした。
柳沢氏は31歳だった1991年に渡米。
テキサス大学サウスウェスタン医学センターの准教授となると同時に、世界有数の医学研究機関であるハワード・ヒューズ医学研究所(HHMI)の准研究員にも就任しました。
まだ30代前半でありながら、自分自身の研究室を率いる立場となったのです。
1996年にはテキサス大学サウスウェスタン医学センター教授、ハワード・ヒューズ医学研究所研究員となりました。
柳沢氏はその後、約24年間にわたってアメリカを研究活動の大きな拠点とします。

柳沢氏の名前を現在最も有名にしている研究が「オレキシン(orexin)」の発見です。
1990年代、柳沢氏の研究室では「オーファン受容体」と呼ばれるタンパク質を研究していました。
受容体の存在は分かっているものの、その受容体に結合して働く物質がまだ分かっていないものを「オーファン(孤児)受容体」と呼びます。
柳沢氏らは、脳の中に存在する物質を膨大に調べ、ある受容体を活性化させる新しいペプチドを発見しました。
これがオレキシンAとオレキシンBです。
1998年、柳沢氏の研究室の櫻井武氏らとの研究成果として科学誌「Cell」に発表されました。
興味深いのは、柳沢氏たちが最初から「睡眠を制御する物質」を探していたわけではないという点です。
オレキシンという名称も、ギリシャ語で「食欲」を意味する「orexis」に由来しています。
発見された当初は、主に食欲や摂食行動に関係する物質だと考えられていました。
オレキシンの働きを詳しく調べるため、研究チームはオレキシンを作れないようにした遺伝子改変マウスを作製しました。
すると予想外の現象が起きました。
マウスが突然動かなくなったり、睡眠と覚醒が不安定になったりしたのです。
その症状は、人間の睡眠障害であるナルコレプシーと非常によく似ていました。
この発見から、
「オレキシンは食欲だけではなく、覚醒状態を安定して維持するために不可欠な物質なのではないか」
という新しい考えが生まれます。
一方、スタンフォード大学のエマニュエル・ミニョー氏らは、ナルコレプシーを発症する犬を研究していました。
異なる方法で研究していた二つの研究グループの成果が合流し、オレキシンの異常がナルコレプシーの重要な原因となることが明らかになっていきました。
この一連の研究が、2026年のラスカー基礎医学研究賞で高く評価されたものです。
オレキシン研究の重要性は、睡眠の仕組みが分かったという学術的成果だけではありません。
オレキシンは、脳に対していわば「起きていなさい」という信号を送る役割を持っています。
そこでオレキシンの働きを抑えれば、自然な眠りを促すことができるのではないかと考えられました。
この発想から開発されたのがオレキシン受容体拮抗薬と呼ばれるタイプの不眠症治療薬です。
現在では日本を含む各国で実際の不眠症治療に使用されています。
反対に、ナルコレプシーではオレキシンの働きが不足しているため、オレキシンの作用を強める薬の研究・開発も進められています。
柳沢氏の基礎研究が、睡眠医学そのものを大きく変える創薬へと発展したことになります。
長年アメリカを拠点にしていた柳沢氏ですが、2010年に大きな転機を迎えます。
内閣府の最先端研究開発支援プログラム(FIRST)に研究プロジェクトが採択され、母校である筑波大学に研究室を開設しました。
研究テーマはもちろん睡眠です。
柳沢氏が目指したのは、単に既存の睡眠研究を続けることではなく、
「なぜ私たちは眠らなければならないのか」
「眠気とはそもそも何なのか」
という、人間にとって極めて身近でありながら科学的には十分解明されていない根本的な謎を解くことでした。
2012年、文部科学省の世界トップレベル研究拠点プログラム(WPI)の一つとして、筑波大学に国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)が設立されました。
柳沢氏は発足時から機構長を務めています。
IIISには、日本だけでなく世界各国から睡眠研究者が集まり、
など幅広い研究が進められています。
柳沢氏が24年間にわたるアメリカでの研究生活で経験した研究環境も、IIISの運営に生かされています。
現在、筑波大学は世界有数の睡眠研究拠点の一つとなっています。
オレキシン発見後も、柳沢氏は睡眠の根本的な仕組みを調べる研究を続けています。
その代表例が、マウスに無作為に遺伝子変異を起こし、睡眠に異常を示す個体を探すフォワード・ジェネティクスという研究です。
この研究から、通常より睡眠時間が大幅に長くなる「Sleepy」マウスや、レム睡眠が減少する「Dreamless」マウスなどが発見されました。
さらに研究を進めることで、睡眠欲求、つまり私たちが感じる「眠気」そのものが脳内でどのように蓄積されるのかという問題にも迫っています。
柳沢氏にとって、オレキシンの発見は睡眠研究のゴールではなく、むしろ睡眠という巨大な謎への入り口だったといえます。
柳沢氏は基礎研究だけでなく、研究成果を社会に生かす取り組みも進めています。
2017年には筑波大学発ベンチャー「株式会社S’UIMIN(スイミン)」を起業しました。
同社では、睡眠時の脳波などを測定して睡眠状態を客観的に評価する技術の社会実装を進めています。
柳沢氏は2025年から同社の取締役CSO・会長を務めています。
これまで専門の睡眠施設などで行われることが多かった睡眠測定を、より身近なものにすることも研究成果の社会実装の一つです。
柳沢氏の研究は世界的にも高く評価されています。
主な受賞・顕彰歴には次のようなものがあります。
| 年 | 受賞・顕彰 |
|---|---|
| 2003年 | 米国科学アカデミー正会員に選出 |
| 2016年 | 紫綬褒章 |
| 2017年 | エルウィン・フォン・ベルツ賞1等 |
| 2018年 | 朝日賞 |
| 2018年 | 慶應医学賞 |
| 2019年 | 高峰記念第一三共賞 |
| 2019年 | 文化功労者 |
| 2022年 | 時実利彦記念賞 |
| 2023年 | ブレークスルー賞・生命科学部門 |
| 2023年 | クラリベイト引用栄誉賞 |
| 2026年 | アルバート・ラスカー基礎医学研究賞 |
特に2023年のブレークスルー賞は、生命科学、基礎物理学、数学などの分野で世界的に大きな業績を挙げた研究者に贈られる国際的な賞です。
さらに2026年4月には、卓越した研究業績を持つ研究者に授与される筑波大学の「卓越フェロー」にも選ばれました。
そして2026年9月9日、ラスカー財団は、柳沢正史氏とスタンフォード大学のエマニュエル・ミニョー教授を2026年アルバート・ラスカー基礎医学研究賞の受賞者として発表しました。
授賞理由は、
覚醒を維持する脳内ペプチド「オレキシン」の同定と、オレキシン欠乏がナルコレプシーにおける制御不能な睡眠を引き起こすことを発見し、睡眠の本質について重要な知見をもたらしたこと
です。
柳沢氏はオレキシンとその受容体を発見し、オレキシンを欠損させたマウスの研究から睡眠・覚醒との関係を突き止めました。
一方のミニョー氏はナルコレプシーを発症する犬などを研究し、別の方向から同じ睡眠・覚醒システムへたどり着きました。
まったく異なる研究から始まった二人の成果がつながり、ナルコレプシーの原因解明と新しい睡眠医学へ発展した点が今回の受賞につながっています。
今回のラスカー賞受賞を受けて、柳沢氏とノーベル生理学・医学賞を結び付けて検索する人も増えています。
ラスカー賞は、過去の受賞者から多数のノーベル賞受賞者が出ていることで知られています。
日本人では、iPS細胞を開発した山中伸弥氏も2009年にラスカー基礎医学研究賞を受賞し、2012年にノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
ただし、ラスカー賞を受賞すれば必ずノーベル賞を受賞するという意味ではありません。
また、ノーベル賞の候補者名は選考段階では公表されないため、柳沢氏を「正式なノーベル賞候補者」と表現するのも正確ではありません。
一方で、オレキシンの発見が睡眠研究の基本概念を変え、実際の治療薬にもつながったこと、さらにブレークスルー賞やラスカー賞など国際的な大型賞を相次いで受賞していることから、柳沢氏の研究が世界最高レベルの評価を受けていることは間違いありません。
| 年 | 主な経歴 |
|---|---|
| 1960年 | 東京都に生まれる |
| 1985年 | 筑波大学医学専門学群卒業 |
| 1988年 | 筑波大学大学院医学研究科博士課程修了、エンドセリンを発見 |
| 1989年 | 筑波大学基礎医学系薬理学講座講師 |
| 1991年 | 京都大学医学部薬理学第一講座講師 |
| 1991年 | テキサス大学サウスウェスタン医学センター准教授、ハワード・ヒューズ医学研究所准研究員 |
| 1996年 | テキサス大学サウスウェスタン医学センター教授 |
| 1998年 | 神経ペプチド「オレキシン」を発見 |
| 2001年 | ERATO柳沢オーファン受容体プロジェクト総括責任者 |
| 2010年 | 筑波大学に研究室を開設、FIRSTプログラム中心研究者 |
| 2012年 | 筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構(WPI-IIIS)機構長 |
| 2017年 | 株式会社S’UIMINを起業 |
| 2019年 | 文化功労者 |
| 2021年 | AMEDムーンショット型研究開発事業プロジェクトマネージャー |
| 2023年 | ブレークスルー賞生命科学部門、クラリベイト引用栄誉賞 |
| 2026年 | 筑波大学卓越フェロー |
| 2026年9月 | アルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞 |
柳沢正史氏は、1960年東京都生まれの医学者・神経科学者です。
筑波大学医学専門学群から同大学大学院へ進み、大学院生時代に強力な血管収縮物質「エンドセリン」を発見しました。
その研究が世界的に評価され、31歳で米国へ渡り、テキサス大学サウスウェスタン医学センターとハワード・ヒューズ医学研究所で長年研究室を率いました。
そして1998年には、後に睡眠医学を大きく変えることになる神経ペプチド「オレキシン」を発見。
オレキシンが睡眠と覚醒を制御し、その欠乏がナルコレプシーを引き起こすことを解明した研究は、不眠症やナルコレプシーの新しい治療法の開発にもつながりました。
2012年からは筑波大学国際統合睡眠医科学研究機構の機構長として、世界各国の研究者とともに「なぜ人間は眠るのか」「眠気とは何なのか」という睡眠の根本的な謎に挑み続けています。
そして2026年9月、オレキシンをめぐる一連の研究によってアルバート・ラスカー基礎医学研究賞を受賞しました。
20代でエンドセリンを発見し、30代で世界的な研究室を率い、さらにオレキシンというもう一つの重要な物質を発見した柳沢氏。
二つの基礎医学上の大きな発見がいずれも実際の医薬品開発へつながっている点でも、現代日本を代表する医学研究者の一人といえるでしょう。