「択捉島には現在、日本人が何人住んでいるのだろう?」
北方領土について調べていると、このような疑問を持つ人も多いのではないでしょうか。
結論からいうと、現在、択捉島に定住している日本人は0人です。
しかし、これは「択捉島には昔から日本人が住んでいなかった」という意味ではありません。
第二次世界大戦が終わった1945年当時、択捉島には3,608人の日本人が暮らしていました。島には村役場や学校、郵便局、商店などがあり、漁業を中心とした地域社会が形成されていました。
ところが1945年8月、ソ連軍が択捉島に進駐。その後、日本人住民は島から引き揚げることになり、現在では日本人の定住者はいなくなっています。
この記事では「択捉島の日本人人口」をテーマに、現在だけではなく、アイヌの人々が暮らしていた時代、江戸時代、戦前の日本人社会、ソ連軍の進駐、そして現在までを歴史的に見ていきます。

まず現在の状況から確認しておきましょう。
現在、択捉島に定住している日本人は0人です。
これは択捉島だけではありません。
現在、これら北方四島に日本人の定住者はいません。
一方で、択捉島そのものが無人島というわけではありません。
現在はロシアの行政の下で数千人規模の住民が生活しており、町や住宅、学校、商店、港、空港なども存在しています。
つまり現在の択捉島は、「人は住んでいるが、日本人の定住者はいない島」ということになります。
現在は日本人人口0人ですが、1945年には状況がまったく異なっていました。
1945年8月15日時点で、択捉島には3,608人、739世帯の日本人が生活していました。
当時の択捉島には、大きく分けて3つの村がありました。
| 村 | 人口 | 世帯数 |
|---|---|---|
| 留別村 | 2,258人 | 424世帯 |
| 紗那村 | 1,001人 | 226世帯 |
| 蘂取村 | 349人 | 89世帯 |
| 合計 | 3,608人 | 739世帯 |
最も人口が多かったのは留別村(るべつむら)です。
択捉島全体の日本人人口の6割以上が留別村に住んでいました。

「人口3,608人」と聞くと、小さな漁村がいくつか存在するだけだったように感じるかもしれません。
しかし、戦前の択捉島にはきちんとした地域社会が存在していました。
島には村役場をはじめ、学校、郵便局、商店などがあり、家族で生活する住民も多数いました。
子供たちは島内の学校へ通い、大人たちは漁業、水産加工、商業、行政などの仕事に従事していました。
現在の北方領土問題というと「島の所有権」の話として捉えられがちですが、かつてそこには数千人の日本人の日常生活があったという点は重要です。
1945年時点で2,258人が生活し、択捉島最大の人口を抱えていたのが留別村です。
択捉島周辺は水産資源が豊富で、サケやマスなどの漁業が盛んでした。
そのため、島の住民の生活は海と非常に深い関係がありました。
主な仕事としては、次のようなものがありました。
択捉島は、単なる日本の「最果ての島」だったわけではありません。
豊富な水産資源を背景として、人々が仕事をし、家庭を築き、地域社会を形成していた島でした。
人口では留別村が最大でしたが、行政上の中心地として重要だったのが紗那村(しゃなむら)です。
1945年時点の人口は1,001人、226世帯でした。
紗那には行政機関や商店などが集まり、市街地が形成されていました。
現在、ロシア側が「クリリスク」と呼んでいる町も、この紗那周辺にあります。
つまり、現在の択捉島の主要な町と、戦前の日本時代の中心地域には地理的な連続性があります。
択捉島北部には蘂取村(しべとろむら)がありました。
1945年時点の人口は349人、89世帯でした。
留別村や紗那村と比較すると小規模ですが、ここにも日本人の集落がありました。
漁業のほか、鉱業などに関係する人々も生活していました。
択捉島は南北に非常に長いため、一つの都市に人口が集中していたわけではありません。
海岸沿いを中心として複数の集落が形成され、人々が生活していました。

人口が数千人だったことから、択捉島を小さな離島だと思っている人もいるかもしれません。
しかし択捉島は非常に大きな島です。
面積は約3,168平方キロメートルあり、南北に約200kmにわたって細長く延びています。
島には多数の火山があり、山岳地帯も広がっています。
そのため島の面積に対して人口は少なく、人口密度はかなり低い地域でした。
住民は島全体に均等に分布していたのではなく、漁港や漁場などを利用しやすい海岸部を中心に暮らしていました。
択捉島の人口の歴史を考える場合、1945年以前の日本人だけを見るのでは十分ではありません。
千島列島には古くからアイヌの人々が暮らしていました。
北海道、樺太、千島列島などはアイヌの人々の広い生活・交易圏を形成していました。
そのため、択捉島について「昔から現在と同じ形の日本人社会があった」と考えるのは正確ではありません。
もともとアイヌの人々の生活圏があり、その後、日本側の交易や行政活動が広がっていったという歴史があります。
18世紀になると、ロシアが千島列島方面へ進出するようになります。
これに対して江戸幕府も北方地域への関心を高め、調査や警備を進めるようになりました。
1780年代には最上徳内らが択捉島方面を調査しました。
さらに1798年には近藤重蔵らが択捉島を訪れています。
18世紀末から19世紀初頭になると、幕府は択捉島での行政・警備・漁場経営への関与を強めました。
この頃から、択捉島における日本側の活動がより本格化していきます。
択捉島の歴史で非常に重要なのが、1855年に結ばれた日魯通好条約です。
この条約によって、日本とロシアとの国境は択捉島と、その北にあるウルップ島との間に定められました。
つまり当時の国境は、
という形になりました。
日本政府が現在、択捉島を「日本固有の領土」としている際にも、この歴史が重要な根拠の一つとなっています。
1875年には日本とロシアの間で樺太千島交換条約が結ばれました。
日本は樺太に対する権利を放棄する一方、ロシアから千島列島北部の島々を譲り受けました。
注意したいのは、択捉島がこの条約によって初めて日本領になったわけではないという点です。
択捉島は1855年の日魯通好条約の時点ですでに日本側に属する島として国境が確認されていました。
1875年に日本側となったのは、択捉島より北にあるウルップ島以北の島々でした。
明治時代以降、択捉島では日本の行政制度が整備されていきました。
水産業を中心として定住人口も増え、村や集落が発展しました。
サケやマスをはじめとする豊富な水産資源が、島の経済を支えていました。
漁業関係者だけではなく、その家族や商店経営者、教師、行政職員なども島で生活していました。
こうして終戦時には、留別村、紗那村、蘂取村を合わせて3,608人の日本人が暮らす社会が形成されていました。
択捉島の人口構成が大きく変わるきっかけとなったのが1945年です。
日本がポツダム宣言を受諾した後の1945年8月28日、ソ連軍が択捉島に上陸しました。
その後、ソ連軍は国後島、色丹島、歯舞群島へと進み、北方四島を占領しました。
しかし、ソ連軍が上陸した瞬間に島から日本人が全員いなくなったわけではありません。
しばらくの間、日本人住民はそのまま択捉島で生活していました。

戦後の択捉島の歴史であまり知られていないのが、日本人とソ連から移住してきた住民が同時に生活していた時期があることです。
ソ連側から民間人の移住が始まった後も、日本人住民はしばらく島に残っていました。
そのため一時期、島では日本人とソ連人が同じ地域で暮らす状態になりました。
元島民の証言には、日本人の住宅にソ連から移住してきた家族が入居し、一つの住宅を分けて使用した例なども伝えられています。
つまり択捉島では、
日本人を中心とする社会 → 日本人とソ連人が混在する社会 → ソ連人を中心とする社会
という急激な変化が、戦後のわずかな期間に起きたことになります。
1947年から1948年にかけて、北方四島に残っていた日本人住民は日本本土へ引き揚げることになります。
択捉島の住民も故郷を離れました。
こうして1945年に3,608人いた択捉島の日本人人口は、最終的に0人となりました。
その後、ソ連各地から住民が移住し、現在につながる人口構成が形成されていきました。
大きな流れを整理すると次のようになります。
| 時期 | 日本人の状況 |
|---|---|
| 江戸時代以前 | アイヌの人々の生活圏 |
| 18世紀末~19世紀初頭 | 幕府の関与が本格化 |
| 明治~昭和初期 | 日本人の定住社会が発展 |
| 1945年8月15日 | 3,608人 |
| 1945年8月28日 | ソ連軍が択捉島へ進駐 |
| 1946~1947年頃 | 日本人とソ連側住民が混在 |
| 1947~1948年 | 日本人住民が引き揚げ |
| 現在 | 定住日本人0人 |
日本人の定住者は0人ですが、現在の択捉島には数千人のロシア側住民が暮らしています。
北方領土問題対策協会が掲載しているロシア側統計では、2020年の択捉島人口は6,480人でした。
終戦時の日本人人口3,608人と比べると、島全体で暮らしている人口そのものは戦前より多くなっています。
島内には現在、住宅、学校、病院、商店、道路、港湾などがあり、空港も整備されています。
また択捉島にはロシア軍の施設も存在します。
インターネットで択捉島について検索すると、人口が「約6千人」と説明されている場合があります。
一方で、「日本人人口は0人」と書かれていることもあります。
これは矛盾ではありません。
「択捉島の人口」は現在島で生活しているロシア側住民を含む人口を意味します。
一方、「択捉島の日本人人口」は日本人定住者の人数を意味します。
したがって現在の状況を簡単に表現すると、
「択捉島には数千人が生活しているが、日本人の定住者は0人」
となります。
もう一つ興味深いのが、日本側の行政上の扱いです。
日本では択捉島について現在も、
という地名が使われています。
ただし、日本は現在択捉島を実効支配していないため、普通の日本国内の市町村のように村役場が置かれて行政サービスが行われているわけではありません。
現地ではロシア側の行政制度が運用されています。
そのため択捉島は、日本側では村の名称が存在する一方、日本人住民は0人という特殊な状態にあります。
現在、択捉島に定住している日本人は0人です。
しかし1945年8月15日時点では、3,608人、739世帯の日本人が暮らしていました。
内訳は、
でした。
択捉島では漁業や水産加工業を中心に地域社会が形成され、学校や役場、商店なども存在していました。
さらに歴史をさかのぼれば、千島列島はアイヌの人々の生活圏でもありました。
江戸時代後期には幕府の関与が強まり、1855年の日魯通好条約では択捉島とウルップ島の間に日露国境が定められました。
そして1945年8月28日にソ連軍が択捉島へ進駐します。
その後、一時的に日本人とソ連側住民が同じ島で生活した時期を経て、1947年から1948年にかけて日本人住民は島を離れました。
その結果、択捉島の日本人人口は、
1945年:3,608人
↓
1948年頃:定住者0人
↓
現在:定住者0人
となっています。
「択捉島の日本人人口」を考えることは、単に現在何人の日本人が住んでいるのかを知るだけではありません。
現在は日本人が一人も定住していない島に、かつて3千人を超える日本人が生活し、家族を持ち、学校へ通い、仕事をしていた社会が存在したという歴史を知ることにもつながります。