日本を代表する分子生物学者で、1987年に日本人として初めてノーベル生理学・医学賞を受賞した利根川進(とねがわ・すすむ)さんが、2026年7月11日に亡くなりました。86歳でした。
利根川さんは、体内で膨大な種類の抗体が作られる仕組みを遺伝子レベルで解明し、それまでの生物学の常識を覆しました。その後は、すでに世界的な名声を得ていた免疫学から脳科学へ研究分野を移し、「記憶が脳のどこに、どのように保存されるのか」という難題に挑み続けました。
米マサチューセッツ工科大学(MIT)は2026年7月15日、利根川さんが同月11日に86歳で亡くなったと発表しました。MITの発表では死因には触れられていません。

| 名前 | 利根川 進(とねがわ すすむ) |
|---|---|
| 生年月日 | 1939年9月5日 |
| 死去 | 2026年7月11日 |
| 享年 | 86歳 |
| 出生地 | 愛知県名古屋市 |
| 出身高校 | 東京都立日比谷高等学校 |
| 出身大学 | 京都大学理学部化学科 |
| 学位 | カリフォルニア大学サンディエゴ校で博士号取得 |
| 専門分野 | 分子生物学、免疫学、神経科学 |
| 主な所属 | バーゼル免疫学研究所、マサチューセッツ工科大学、理化学研究所 |
| 主な受賞 | 文化勲章、アルバート・ラスカー基礎医学研究賞、ノーベル生理学・医学賞など |
利根川進さんは1939年9月5日、愛知県名古屋市に生まれました。男3人兄弟の次男で、ほかに妹が1人いました。
父親は繊維会社に勤務する技術者でした。会社の工場が各地にあったため、父親の転勤に伴って家族も数年ごとに引っ越し、利根川さんは地方の町を転々としながら少年時代を過ごしました。
中学生から高校生になる頃、より良い教育を受けさせたいという両親の考えから、兄とともに東京へ移ります。東京では親族の家から東京都立日比谷高校に通いました。
日比谷高校時代に化学へ関心を持つようになり、高校卒業後は京都大学理学部化学科を受験しました。最初の受験では合格できませんでしたが、翌1959年に京都大学へ入学しています。
京都大学に入学した当初、利根川さんは化学技術者になることを考えていました。しかし大学在学中、遺伝子の働きを説明する「オペロン説」に関する論文を読み、当時まだ新しい学問だった分子生物学に強く引かれるようになります。
オペロン説とは、遺伝子の働きがどのように調節されているのかを説明する理論です。生物の仕組みを分子や遺伝子のレベルで理解できることに衝撃を受けた利根川さんは、大学院で分子生物学を研究することを決意しました。
1963年に京都大学理学部化学科を卒業した後、京都大学ウイルス研究所の渡辺格研究室に入りました。
ところが研究を始めてわずか2か月ほどで、指導教員だった渡辺格教授から、米国の大学院で学ぶことを勧められます。当時の日本では分子生物学の研究環境や大学院教育が十分に整っておらず、最先端の研究を行うには米国へ渡る方がよいと判断されたためです。
利根川さんは渡辺教授の助言を受け、カリフォルニア大学サンディエゴ校の大学院へ進みました。
同大学では、ウイルスの一種である「ラムダファージ」が、どのように遺伝子の転写を調節しているのかを研究しました。転写とは、DNAに記録された遺伝情報をもとに、タンパク質を作るための情報が読み取られる過程です。
利根川さんは1968年、分子生物学の博士号を取得。その後も研究員として同大学に残った後、近隣にあるソーク研究所へ移りました。
ソーク研究所では、後にノーベル生理学・医学賞を受賞するレナート・ドゥルベッコ博士の研究室に所属し、がんと関係するウイルスの遺伝子発現について研究しました。
1970年末、米国の滞在資格の関係から、利根川さんは米国を離れる必要に迫られました。そこで1971年、スイスに設立されたばかりのバーゼル免疫学研究所に移ります。
それまでの利根川さんは免疫学をほとんど専門的に学んでいませんでした。しかし、分子生物学の新しい技術を免疫研究に応用すれば、大きな謎を解明できるのではないかと考えました。
ここで利根川さんが注目したのが、長年にわたって免疫学者を悩ませていた「抗体の多様性」という問題でした。
人間の体内に細菌やウイルスなどの異物が入ると、免疫細胞はそれぞれの異物に対応した抗体を作ります。
抗体は、特定の異物を見分けて結びつき、その働きを抑えたり、ほかの免疫細胞が攻撃するための目印を付けたりするタンパク質です。
体内では数億種類にも及ぶ抗体を作ることができると考えられていました。一方、人間が持つ遺伝子の数は、抗体の種類よりはるかに少ないことが分かっていました。
当時は「一つの抗体を作るために一つの遺伝子が必要だ」と考える研究者もいました。しかし、その考え方では、限られた数の遺伝子から数億種類もの抗体が生まれる理由を説明できません。

利根川さんは、マウスの未成熟な細胞と、抗体を作るまでに成熟した免疫細胞のDNAを比較しました。
その結果、抗体を作る免疫細胞では、もともと離れた位置に存在していた複数の遺伝子断片が移動し、組み合わされていることを突き止めます。
抗体の設計図が最初から一つの完成した遺伝子として存在するのではなく、免疫細胞が成熟する過程で、複数の遺伝子断片が選ばれて組み換えられていたのです。
これは現在、V(D)J遺伝子再構成と呼ばれています。異なる遺伝子断片をさまざまに組み合わせることで、限られた遺伝子から膨大な種類の抗体を作ることができます。
たとえば、色や形の異なる複数の部品を組み合わせて、何万通りもの製品を作るような仕組みです。部品そのものの数は限られていても、組み合わせ方を変えることで、非常に多くの種類を生み出せます。
利根川さんは1976年、この遺伝子再構成の存在を実験によって明確に示しました。ノーベル賞委員会は、抗体を作るBリンパ球へ成長する過程で遺伝子が再配置されることを示した研究を高く評価しました。
当時は、同じ個体を構成する細胞は、基本的に同じ遺伝情報を持ち、そのDNAの並び方も変わらないという考え方が一般的でした。
しかし利根川さんの研究は、免疫細胞が成熟する過程でDNAの一部が実際に切断され、並べ替えられることを明らかにしました。
つまり、生まれた後の体細胞でも、特定の役割を果たすために遺伝子の構造そのものが変化する場合があることを証明したのです。
この発見によって、抗体の多様性という免疫学の難問が解決されただけでなく、遺伝子や細胞に対する生物学の理解も大きく変わりました。
利根川さんは1981年、米マサチューセッツ工科大学の教授に就任しました。
1983年には文化功労者に選ばれ、1984年には文化勲章を受章。1987年には、「抗体の多様性を生み出す遺伝的原理の発見」によって、ノーベル生理学・医学賞を受賞しました。
受賞時の年齢は48歳でした。日本人がノーベル生理学・医学賞を受賞したのは、利根川さんが初めてです。また、共同受賞ではなく、利根川さん一人に賞が授与される単独受賞でした。
利根川さんの研究は、免疫系の基本構造を理解するうえで重要なだけでなく、ワクチン、感染症、自己免疫疾患、移植医療、がん免疫など、その後の幅広い医学研究の基礎となりました。
通常、世界的な大発見を成し遂げた研究者は、その分野で研究を続けることが少なくありません。しかし利根川さんは、抗体の多様性をめぐる大きな謎はおおむね解決したと考え、新しい研究分野へ進みました。
MITに移った当初は、免疫を担うT細胞の受容体について研究し、T細胞が多様な異物を見分ける仕組みの解明に貢献しました。
その後、研究の中心を免疫学から神経科学へと大きく移します。ノーベル賞を受賞した研究分野から離れ、ほとんど経験のなかった脳科学に挑戦することは、大きな危険を伴う選択でした。
それでも利根川さんは、過去の実績を守るよりも、自分が本当に面白いと感じる問題を研究することを重視しました。
脳科学で利根川さんが取り組んだ大きなテーマが、記憶の仕組みです。
人が何かを経験すると、その記憶は脳内に何らかの物理的な変化として保存されると考えられてきました。この記憶の痕跡は「エングラム」と呼ばれます。
しかし長い間、エングラムが脳のどの細胞に存在し、どのように呼び起こされるのかを直接確認することは困難でした。
利根川さんの研究チームは、光を使って特定の神経細胞を操作する「光遺伝学」という技術などを利用し、マウスがある経験をした際に活動した神経細胞を特定しました。
2013年には、経験に関する記憶が脳の海馬にある特定の神経細胞群に保存されていることを示しました。さらに、その細胞群を人工的に刺激することで、マウスに記憶を思い出させる実験にも成功しました。

利根川さんの研究チームは、記憶を人工的に呼び起こすだけでなく、本来は結びついていなかった場所と恐怖体験を脳内で関連付ける実験も行いました。
マウスが安全な場所にいた際に活動した神経細胞を記録し、別の場所で恐怖を感じている最中に、その神経細胞を人工的に刺激しました。
するとマウスは、実際には危険な経験をしていない最初の場所でも、恐怖反応を示すようになりました。安全な場所についての記憶と、別の場所で経験した恐怖が結びつき、「偽の記憶」が形成されたと考えられます。
その後の研究では、一つの記憶が海馬だけに保存されるのではなく、脳内の複数の領域にまたがる神経回路に分散して保存されていることも明らかにされました。
利根川さんは1994年、MITに設立された学習・記憶研究センターの初代所長に就任しました。
同センターは2002年に「ピカワー学習・記憶研究所」となり、利根川さんは2006年末まで所長を務めました。
同研究所は、記憶、学習、感情、認知、脳疾患などを研究する世界的な神経科学の研究拠点へ成長しました。利根川さんは自身の研究だけでなく、多くの若手研究者を育成し、脳科学の発展にも大きく貢献しました。
利根川さんは日本の研究機関でも指導的な役割を果たしました。
2009年から2017年まで、理化学研究所の脳科学総合研究センターで第3代センター長を務めました。
同センターでは、分子や神経細胞の研究から、行動、認知、精神疾患に関する研究まで、幅広い脳科学研究を推進しました。海外で長く研究してきた経験を生かし、日本の脳科学研究を国際的に発展させることにも力を注ぎました。
利根川さんは、研究テーマを選ぶ際に、その研究が安全か、成功しやすいか、研究者としての経歴に有利かといったことを優先しませんでした。
重視していたのは、取り組もうとしている科学的な問題が面白いか、自分が本当に興味を持てるかという点でした。
免疫学でノーベル賞を受賞した後に脳科学へ移ったことは、その考え方を象徴しています。実績のある分野にとどまらず、未知の分野でも好奇心と直感に従って研究を始めました。
理化学研究所で若い世代に向けた文章でも、優れた科学者には、科学的な探究を心から楽しむ姿勢、困難に遭遇しても諦めない楽観性、未知の領域に挑戦する姿勢が共通していると述べています。
利根川進さんの最大の功績は、抗体遺伝子の組み換えを発見し、限られた遺伝子から膨大な種類の抗体が作られる仕組みを明らかにしたことです。
この研究は免疫学の長年の謎を解決し、遺伝子は体細胞の中でも目的に応じて再構成されることがあるという、新しい生物学の考え方を示しました。
さらに利根川さんは、ノーベル賞受賞後も過去の成果に安住せず、脳科学という新しい分野に挑戦しました。記憶を保存する神経細胞群の特定や、記憶を人工的に呼び起こす研究は、人間の記憶や心の仕組みを理解するための重要な一歩となりました。
免疫学と神経科学という異なる二つの分野で、世界の研究を大きく前進させた利根川さん。その生涯は、未知の問題に挑む好奇心と、分野の壁を越える勇気の大切さを示しています。