近年、「中国では“翠”という漢字が使えなくなった」「中国のネットで“翠”がNGワードになった」という情報が日本語のSNSやまとめサイトで拡散しました。とくに2021年ごろ、中国のSNS(微博/ウェイボー)で“翠”という字を含む投稿が削除される・表示されにくいという出来事があり、「中国政府が『翠』を禁止したのではないか」という憶測が一気に広まったのです。
しかし結論からいえば、中国で「翠」という漢字そのものが法律や行政の規定で“一律に禁止”された事実は確認できません。 この記事では、この噂がどこから出たのか、中国の名前用漢字の仕組みやネット検閲の実態とあわせて整理し、実情に近いところを分かりやすく解説していきます。
この話が注目された背景には、中国の作家や中国研究者の対談で「『翠』が中国のネットで使えないことがある」という趣旨の話が紹介されたこと、さらに中国語圏のニュースサイトや海外華字メディアが「“翠”は指導者を揶揄する隠語として使われたため、一定期間プラットフォーム側が規制した」と報じたことがあります。2021年前後には、中国のSNSで政治指導者を揶揄する単語や当て字が次々とブロック対象になっており、“翠”もその一つとして語られました。
ポイントはここです。
つまり、最初から「中国国家が漢字そのものを禁止した」というより、「特定の場面で投稿が通らなかった」→「これは禁止に違いない」→「中国ではこの漢字が使えないらしい」と話が拡大していったと考えられます。
中国のネットでは、指導者の名前を直接書くと削除されることがあるため、ユーザーがさまざまな“言い換え”“当て字”を編み出します。“翠(cuì)”もその一つとして話題になりました。理由は、漢字を分解すると「羽+卒」で、これを一部のネットユーザーが「習(=习)が2つ+卒」で“あの指導者が2回死ぬ”といった政治的な揶揄に読めるとこじつけたためです。もちろんこれは言葉遊びであり、本来の漢字の意味とは関係がありません。
中国の検閲は、こうした「政治的に敏感になりうる表現」を広がる前に機械的に止めることがあります。結果として、まったく普通の文脈──たとえば「翡翠」「翠鳥」「翠色のドレス」などを投稿した人までもが、同じキーワードに引っかかってしまった可能性があります。ここから「中国では“翠”が打てない」「禁止されたのだ」という印象が広がっていきました。
これもよくある誤解ですが、中国の戸籍・身分証の名前に使える漢字は、基本的に《通用规范汉字表》などの“標準漢字リスト”に入っているかどうかで判断されます。 このリストは教育部や公安部が参照するもので、町の派出所での戸籍・身分証の登録もこれに従う運用が一般的です。
そして“翠”は、もともと中国語でも普通に使われる語で、女性の名前にも見られる字です。実際、現在でも中国語圏には「翠华」「翠兰」「翠萍」のような名前を持つ人が数多くいます。したがって、**「もう“翠”という名前の人は中国で戸籍登録できない」**というような強い意味での“禁止”は事実ではありません。
もちろん、地方によってはシステムの字庫(フォント)が古く、まれな字が入力できない、担当者の裁量で「難字はやめてください」と言われる──といった“運用上の制限”が起こることはあります。ですがこれは“翠だからダメ”なのではなく、「PCに入っていない字は登録しづらい」という技術的・事務的な問題です。
今回の噂でややこしいのは、
この二つがごっちゃになって伝わってしまった点です。
中国では、政治指導者に対する当て字や揶揄、風刺画像などがSNSで削除されることは珍しくありません。これはプラットフォームが規制リストを持っており、そこに入った語が機械的にブロックされるからです。ここでブロックされたからといって、その漢字が本や看板や身分証で使えなくなるわけではありません。
“翠”の場合も、政治的な連想を避けるために一時的にSNS側が厳しめにフィルタした可能性はあります。ですが、それをもって「中国で『翠』という字が禁止になった」と言い切るのは、範囲を大きく言い換えた誤情報と言ってよいでしょう。
このような要素が重なり、元の規制がかなり限定的だったのに、あたかも漢字そのものが全面禁止になったかのように伝わったと考えられます。
中国のネット空間では、今後も特定の字や言い回しが一時的に検索・投稿で引っかかることはあり得ます。しかし、それがそのまま「漢字の禁止令」だと受け取ってしまうと、現実よりも過剰に厳しいイメージだけが広がってしまいます。情報を見かけたときは、「どの場面で」「誰が」「どの範囲を」規制したのかを確認することが大切です。