2026年8月、アメリカのトランプ政権が、ICC(国際刑事裁判所)の所長を務める日本人の赤根智子(あかね・ともこ)氏を制裁対象に指定したことが大きなニュースになりました。
国際機関のトップ、それも日本人の裁判官がなぜアメリカから制裁を受けることになったのでしょうか。
結論から言えば、今回の制裁の最大の背景にあるのは、ICCとアメリカ・イスラエルとの間で続いている「ICCに裁く権限があるのか」という深刻な対立です。
特に、ICCがイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相らを対象に捜査・訴追を進めてきたことに対し、イスラエルの同盟国であるアメリカが強く反発しています。
アメリカ政府は2026年8月18日、ICC所長の赤根智子氏と、ICCの上級法務担当者アブドゥライ・セイエ氏を制裁対象に指定しました。
赤根氏は日本出身の法律家で、検察官などを経てICC判事となり、2024年3月にICC所長に選出されています。
今回の指定によって赤根氏は、アメリカ財務省外国資産管理局(OFAC)の制裁対象者リストに加えられました。
日本人がICCのトップを務めていること自体が珍しいだけに、日本国内でも大きく報道されています。

今回の問題を理解するうえで重要なのは、単に「赤根氏個人がアメリカと対立した」という話ではないことです。
アメリカ政府が問題視しているのは、ICCという裁判所そのものの権限と活動です。
トランプ政権は、ICCがアメリカやイスラエルなど、ICCを設立したローマ規程の締約国ではない国の国民にまで司法権を及ぼそうとしていることを強く批判しています。
アメリカ側の主張を整理すると、主に次のようになります。
つまり今回の赤根氏への制裁は、ICCの司法活動に対してアメリカ政府が政治・経済的な圧力をかける措置という側面が非常に強いのです。
ICCとアメリカの対立を決定的に深めた問題の一つが、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相らをめぐるICCの対応です。
ICCはガザ地区での戦闘をめぐり、戦争犯罪や人道に対する犯罪の疑いについて捜査を進め、2024年11月にはネタニヤフ首相と当時のヨアブ・ガラント前国防相に対する逮捕状を発付しました。
これにイスラエル政府は猛反発。
イスラエルの重要な同盟国であるアメリカもICCの判断を強く批判しました。
トランプ政権は、ICCにはイスラエルの指導者を裁く正当な権限がないという立場を取っています。

ここが今回の問題で最も分かりにくいポイントです。
確かにイスラエルはICCの加盟国ではありません。
しかしICC側は、パレスチナがICCのローマ規程締約主体となっているため、パレスチナ領域で行われたとされる犯罪については、行為者の国籍にかかわらず管轄権を行使できるという立場です。
これに対してアメリカやイスラエルは、ICCによる管轄権の行使そのものを強く問題視しています。
つまり対立の構図は、かなり単純化すると次のようになります。
| ICC側 | アメリカ・イスラエル側 |
|---|---|
| パレスチナ領域で起きた犯罪について管轄権を行使できる | イスラエルはICC加盟国ではなく、ICCの権限を認めていない |
| 国家指導者であっても重大な国際犯罪について責任を問える | ICCによる権限行使は主権侵害だと主張 |

今回突然、アメリカとICCの関係が悪化したわけではありません。
アメリカはそもそもICCの設立条約であるローマ規程の締約国ではありません。
さらにICCがアフガニスタンでの戦争犯罪疑惑をめぐって米軍関係者などを捜査対象としたことで、両者の対立は以前から深まっていました。
第一次トランプ政権でもICC関係者に対する制裁が実施され、その後バイデン政権が制裁を解除した経緯があります。
そして第2次トランプ政権発足後の2025年2月、トランプ大統領はICCを対象とする大統領令14203に署名。
アメリカやイスラエルなどを対象とするICCの捜査・訴追に関与した人物に対して、資産凍結や入国制限などを科すことが可能になりました。
赤根氏が最初に制裁されたICC幹部というわけではありません。
2025年2月には、ICC主任検察官のカリム・カーン氏がアメリカの制裁対象に指定されました。
その後もICCの裁判官や関係者が相次いで制裁対象となり、2026年8月にはついにICCのトップである赤根氏まで対象が拡大した形です。
このため今回の措置は、赤根氏個人だけを狙った単発の制裁というより、トランプ政権によるICCへの圧力強化の一環と見る必要があります。
ここは誤解しやすいところです。
今回の制裁は、赤根氏が日本国内で何らかの違法行為を行ったために科されたものではありません。
アメリカ政府はICCの活動そのものを問題視し、その最高責任者である赤根氏を制裁対象に指定しています。
アメリカのマルコ・ルビオ国務長官はICCについて、政治化された機関であり、アメリカや同盟国に対して不当に権限を行使しているという趣旨の厳しい批判を展開しています。
したがって、今回の制裁を「赤根氏が犯罪を犯したからアメリカに処罰された」と理解するのは正確ではありません。
ICCの司法権を正当なものと考える側と、それを国家主権への侵害と考えるアメリカ側との政治・法的対立が背景にあります。
アメリカの制裁対象に指定されると、実生活にも大きな影響が生じる可能性があります。
代表的なのがアメリカ国内または米国人の管理下にある資産の凍結です。
さらに米国人やアメリカ企業との一定の取引が原則として禁止され、アメリカの金融システムを利用する取引にも大きな制約が生じます。
国際的な金融取引では米ドル決済やアメリカの金融機関が広く利用されているため、制裁の影響はアメリカ国内だけにとどまらない場合があります。
| 主な措置 | 影響 |
|---|---|
| 米国内の資産 | 原則として凍結 |
| 米国人・米企業との取引 | 原則禁止 |
| 米金融システム | 利用が大幅に制限される可能性 |
| アメリカへの入国 | 制限の対象となる可能性 |

日本政府も今回の制裁に反応しています。
高市早苗首相は2026年8月19日、赤根氏らが制裁対象となったことについて「大変残念だ」との認識を示しました。
日本は2007年にICCの加盟国となって以来、ICCを積極的に支援してきた国の一つです。
その日本出身の赤根氏がICC所長を務めている最中に、同盟国であるアメリカから制裁を受けるという、外交的にも非常に難しい状況となりました。
一方、アメリカ国務省は今回の措置について、日本政府を対象としたものではなく、ICCの行為に対処することが目的だと説明しています。
つまりアメリカとしては、日米同盟とICC問題は切り分けるという立場です。
ICC側は今回のアメリカの措置に強く反発しています。
ICCは、裁判官や検察官、職員を対象とする制裁は、独立した司法機関に対する重大な攻撃であり、法の支配を損なうものだと批判しています。
ICCとしては、政治的圧力によって裁判や捜査の方向性を変更すれば、国際裁判所としての独立性そのものが失われるという考えです。
一方で、アメリカ側にも一貫した主張があります。
アメリカはICCの加盟国ではなく、ICCの司法権を受け入れていません。
そのため、自国や同じく非加盟国であるイスラエルの国民がICCによって訴追されることについて、国家主権上の重大な問題だと考えています。
アメリカ側から見ると、「自国が参加していない国際裁判所が、自国民や同盟国の指導者を逮捕・訴追しようとしている」という構図になります。
これに対しICC側は、犯罪が行われた場所など一定の条件を満たせば、被疑者の国籍にかかわらず管轄権を行使できると考えています。
この根本的な考え方の違いこそが、現在の対立の核心です。

赤根氏をめぐっては、アメリカだけでなくロシアとの対立も知られています。
ICCは2023年3月、ウクライナの占領地域から子どもを違法に移送した疑いなどをめぐり、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領に逮捕状を発付しました。
赤根氏はこの逮捕状を出した裁判官の一人でした。
これに反発したロシアは赤根氏を指名手配しています。
つまり赤根氏は、ICC判事・所長としての活動を理由に、ロシアからは指名手配、アメリカからは経済制裁という異例の状況に置かれていることになります。

今回、ICCの所長自身が制裁対象となったことで、アメリカとICCの対立はさらに深刻な段階に入ったと考えられます。
特に注目されるのは、アメリカがICC加盟国に対してもICCへの支援を見直すよう求めている点です。
日本や欧州諸国の多くはICC加盟国であり、国際的な戦争犯罪や人道に対する犯罪を裁く制度としてICCを支持しています。
その一方で、アメリカはICCに加盟しておらず、ICCが非加盟国の国民にまで権限を及ぼすことに反対しています。
そのため、この問題は単なる「アメリカ対赤根所長」ではありません。
国際的な司法機関の権限をどこまで認めるのか、国家主権との境界線をどこに置くのかという、国際社会全体に関わる問題になっています。
ICC所長の赤根智子氏がアメリカから制裁を受けた最大の理由は、ICCがアメリカやイスラエルなど非加盟国の関係者に対しても捜査・訴追を進めていることに、トランプ政権が強く反発しているためです。
特にネタニヤフ首相らへの逮捕状をめぐって、ICCとアメリカ・イスラエルの対立は決定的に深まりました。
今回のポイントは、赤根氏が個人的な犯罪行為によって制裁されたわけではないということです。
背景にあるのは、「ICCは非加盟国の国民を裁くことができるのか」という国際法上・政治上の大きな対立です。
さらに赤根氏はプーチン大統領への逮捕状に関与したことでロシアからも指名手配されており、国際刑事司法をめぐる国家とICCの対立を象徴する人物となっています。
日本にとっても、ICCを支持する立場を維持しながら、最大の同盟国であるアメリカとどのように調整していくのかが今後の重要なポイントとなりそうです。