建設機械大手「コマツ(小松製作所)」の元社長で、日本経済団体連合会(経団連)副会長などを歴任した坂根正弘(さかね・まさひろ)さんが、2026年8月10日、病気のため亡くなりました。85歳でした。
坂根さんは、経営危機に陥っていたコマツの社長に2001年に就任し、大胆な構造改革を断行。会社をV字回復へ導いたことで知られる、日本を代表する経営者の一人です。
「ダントツ経営」という考え方を掲げ、コマツを世界有数の建設機械メーカーへ成長させたほか、経団連副会長や政府の各種会議の委員なども務めました。
また、幼少期から高校卒業までを過ごした島根県浜田市への思いも強く、教育や文化振興、人材育成に貢献。2015年には浜田市名誉市民に選ばれています。
坂根正弘さんは幼少期から島根県浜田市で育ちました。
浜田市が公表している経歴によると、学歴は次の通りです。
現在の大阪公立大学につながる大阪市立大学で工学を学んだ後、1963年4月に建設機械メーカーの小松製作所、現在のコマツへ入社しました。
大学卒業後の1963年、坂根さんはコマツに入社しました。
入社当初はブルドーザーの設計技術者としてキャリアをスタートしています。
技術畑の出身でありながら、その後は品質管理、海外事業、経営企画などへ活躍の場を広げていきました。
1989年には取締役に就任。さらに1990年代初頭には、米国事業を担う小松ドレッサーカンパニー(現在のコマツアメリカ)のトップを務めました。
このアメリカでの経営経験は、後に坂根さんがコマツ全体を率いる際にも大きな財産になったとされています。
1999年に代表取締役副社長となり、2001年6月には代表取締役社長に就任しました。
2003年からは代表取締役社長兼CEOを務めています。
しかし、坂根さんが社長に就任した時期のコマツは、決して順風満帆ではありませんでした。
世界的な競争激化や事業の多角化などを背景に経営環境が悪化し、コマツは創業以来初となる大規模な赤字に直面しました。
坂根さんは、この危機的状況で大幅な経営改革に乗り出します。

坂根正弘さんの名前が広く知られるようになった最大の理由が、コマツを経営危機から立て直したことです。
坂根さんは不採算事業の見直しや固定費削減など、痛みを伴う構造改革を実行しました。
一方、単純なコスト削減だけではなく、コマツにしか作れない高付加価値の商品やサービスを生み出すことにも力を注ぎました。
その結果、コマツは赤字から急速な業績回復を実現します。
坂根さんの経営改革は、日本企業における代表的な「V字回復」の成功例として取り上げられるようになりました。
坂根正弘さんを語るうえで欠かせない言葉が、「ダントツ経営」です。
競合企業とわずかな差で競争するのではなく、相手が簡単には追いつけないほど大きな差をつけた商品やサービスを作るという考え方です。
コマツでは「ダントツ商品」を生み出し、価格競争だけに頼らないビジネスモデルを築いていきました。
さらに建設機械に通信技術を組み合わせ、機械の位置や稼働状況などを把握できる「KOMTRAX(コムトラックス)」の活用など、後のIoTやDXにつながる取り組みも進めました。
「建設機械を売って終わり」ではなく、その後の稼働状況や顧客ニーズまで把握する仕組みを構築したことは、コマツの競争力を大きく高めることになりました。
坂根さんによる構造改革とグローバル戦略によって、コマツの経営基盤は大きく強化されました。
中国や東南アジアをはじめとする新興国市場への展開も進み、コマツは世界を代表する建設機械メーカーへ成長していきます。
浜田市も坂根さんについて、コマツを「世界第2位の建設機械メーカーに導いた日本を代表する経営者の一人」と評価しています。

坂根さんは2007年6月、代表取締役会長に就任しました。
その後もコマツの経営に長く関わり、主な役職は次のように推移しています。
半世紀にわたりコマツに関わり、日本の製造業を代表する経営者として存在感を示しました。
坂根さんの活動はコマツだけにとどまりません。
日本の産業界や政府の政策形成にも深く関わりました。
主な役職として、
などを歴任しています。
特に2010年から務めた経団連副会長としては、日本企業の国際競争力、エネルギー政策、環境問題など幅広い政策課題に関わりました。
坂根さんは企業経営の経験を生かし、政府の各種会議でも民間有識者として活動しました。
産業競争力会議、国家戦略特別区域諮問会議、まち・ひと・しごと創生に関する会議などに参加し、日本経済の成長戦略や地方創生について提言しました。
経営の現場だけでなく、日本の産業政策や地域政策にまで影響を与えた人物だったといえます。
坂根正弘さんは、幼少期から高校時代までを過ごした島根県浜田市とのつながりを生涯大切にしました。
浜田市の学校施設や学校図書の充実、文化施設の整備、伝統芸能の支援などを目的として寄附を行い、地域の教育・文化振興に貢献しました。
こうした功績などが評価され、2015年10月4日、浜田市から名誉市民の称号を贈られました。
浜田市は坂根さんを、日本経済の発展に貢献すると同時に「ふるさと浜田」を愛し、教育・文化振興、人材育成に貢献した人物として顕彰しています。
坂根さんの浜田市への貢献の中でも特に大きいのが、若者の人材育成です。
坂根さんからの寄附を原資として、2014年4月に「坂根正弘奨学金」が創設されました。
将来、科学技術や医学の進歩、経済の発展などに貢献する人材を育成することを目的とした奨学金制度です。
世界的企業の経営者になった後も、自らが育った浜田市の次世代を支援し続けたことは、坂根さんの人物像を知るうえで重要な一面でしょう。
坂根さんは経営者としてだけでなく、品質管理や日本経済への貢献でも高く評価されています。
特に2014年に受章した旭日大綬章は、日本の産業・経済の発展に長年貢献した功績を象徴するものとなりました。
坂根さんは、その豊富な経営経験を買われ、多くの日本企業で社外取締役なども務めています。
これまでに、東京エレクトロン、野村ホールディングス、野村證券、旭硝子(現在のAGC)、武田薬品工業、鹿島建設などの社外取締役を歴任しました。
また、日本銀行参与も務めるなど、一企業の経営者という枠を超えて、日本の経済界全体で幅広く活動しました。
コマツは2026年8月18日、元代表取締役社長兼CEOの坂根正弘さんが2026年8月10日に病気のため死去したと発表しました。
85歳でした。
病名など、病気の具体的な内容については公表されていません。
通夜と葬儀は近親者のみで執り行われました。コマツによると、2026年8月18日の発表時点で「お別れの会」については未定とされています。
坂根正弘さんの経歴を振り返ると、特に印象的なのは「危機の時に決断できる経営者」だったことです。
コマツが厳しい経営状況にある中で社長となり、問題を先送りせず、大規模な構造改革を断行しました。
その一方で、単なるリストラだけでは会社は成長しないと考え、「ダントツ商品」やICTを活用した新しいビジネスモデルに投資しました。
「守り」と「攻め」を同時に行ったことが、コマツのV字回復につながったと考えられます。
技術者としてキャリアを始め、海外事業を経験し、世界企業のトップとなり、さらに日本の経済政策にも関わる――坂根さんの経歴は、戦後日本の製造業の歩みとも重なります。
坂根正弘さんは、1941年生まれ。島根県浜田市で育ち、浜田高校から大阪市立大学工学部へ進学しました。
1963年にコマツへ入社し、ブルドーザーの設計技術者からキャリアをスタート。海外事業や経営企画を経験した後、2001年に社長へ就任しました。
経営危機に直面したコマツで大胆な構造改革を実施し、会社をV字回復へ導き、「ダントツ経営」を掲げて世界有数の建設機械メーカーへ成長させました。
その後はコマツ会長、経団連副会長、日本科学技術連盟会長、政府の各種会議の委員などを歴任。2014年には旭日大綬章を受章しています。
また、故郷といえる浜田市への貢献にも力を注ぎ、寄附を原資とする「坂根正弘奨学金」が創設され、2015年には浜田市名誉市民となりました。
2026年8月10日、病気のため85歳で死去。
コマツを経営危機から立て直した「ダントツ経営」の実践者として、そして日本の製造業や経済政策、地方の人材育成に幅広く貢献した経営者として、その功績は長く語り継がれていくことでしょう。