アルゼンチンのサッカー代表や首都ブエノスアイレスの街並みを見ると、イタリア系やスペイン系など、ヨーロッパにルーツを持つ人が多いことに気づきます。同じ南米でも、先住民系の人口が多いペルーやボリビア、アフリカ系の人口が多いブラジルとは、人口構成がかなり異なって見えます。
アルゼンチンに白人が多い最大の理由は、19世紀後半から20世紀前半にかけて、イタリアやスペインを中心とするヨーロッパから非常に多くの移民が渡ってきたことです。しかも当時のアルゼンチンは人口がまだ少なかったため、数百万人規模の移民が社会全体の人口構成を大きく変えました。
ただし、「アルゼンチン人の何%が白人か」という正確な公式統計はありません。現在のアルゼンチンは、欧州系だけでなく、先住民系、アフリカ系、中東系、アジア系などのルーツが重なり合う多民族社会です。「白人が多い」という表現だけでは見えにくい歴史もあります。

| 主な理由 | 人口構成に与えた影響 |
|---|---|
| ヨーロッパからの大量移民 | イタリア人とスペイン人を中心に数百万人が流入した |
| 政府による移民奨励 | 憲法や移民政策によって欧州から人を呼び込んだ |
| 農牧業を中心とする経済成長 | 仕事と比較的高い賃金を求める移民を引きつけた |
| もともとの人口が少なかった | 移民の比率が短期間で非常に高くなった |
| 「欧州系国家」という国民像の形成 | 先住民系やアフリカ系の存在が社会や歴史教育の中で見えにくくなった |
アルゼンチンは16世紀以降、スペインの植民地支配を受けました。そのため、スペインから来た入植者とその子孫は、独立以前から暮らしていました。
しかし、現在の人口構成を「スペインの植民地だったから」とだけ説明することはできません。植民地時代の社会には、スペイン系住民のほか、各地の先住民、アフリカから連れてこられた人々、その間に生まれた人々が暮らしていました。独立当時のアルゼンチンが、最初からヨーロッパ系住民だけの国だったわけではありません。
現在のアルゼンチンに強い欧州系の特徴をもたらした決定的な出来事は、独立後、とりわけ19世紀後半に始まった大規模な移民です。

アルゼンチンでは、1870年代ごろから第一次世界大戦前まで、ヨーロッパからの移民が急増しました。1870年から1914年までに約590万人の移民がアルゼンチンに到着し、その半数以上が定住したとされています。
1914年の国勢調査では、アルゼンチン全体の約3割が外国生まれでした。アルゼンチン政府の移民博物館は、この時期の同国について、人口に占める外国人の割合が新大陸の移民受け入れ国の中でも特に高かったと説明しています。首都ブエノスアイレスでは、外国生まれの住民が人口のおよそ半数に達しました。
当時の人口規模を考えると、この流入の大きさがよく分かります。アルゼンチンの総人口は、1870年代初めの200万人未満から、1914年には800万人を超えるまでに増加しました。移民本人だけでなく、アルゼンチンで生まれた子どもや孫も加わったことで、欧州系の人口が急速に増えていったのです。
移民の中心となったのは、南ヨーロッパのイタリアとスペインでした。フランス、ドイツ、イギリス、ウェールズ、東欧諸国などから来た人々もいましたが、アルゼンチンの社会や文化に最も大きな影響を与えたのはイタリア系とスペイン系です。
スペイン語が使われているのは植民地時代以来の歴史によるものですが、アルゼンチンのスペイン語、特にブエノスアイレス周辺の話し方には、イタリア語の抑揚に似た特徴があるといわれます。パスタ、ピザ、アイスクリームなどが食文化に深く根づき、イタリア系の姓を持つ人が多いことからも、移民の影響を確認できます。
移民は互いに分離したまま暮らしたのではなく、異なる出身集団や、以前から暮らしていた住民との間で結婚を重ねました。そのため、現代のアルゼンチン人の祖先を一つの国や民族だけに分けることは困難です。
ヨーロッパからの移民が増えた背景には、アルゼンチン政府の明確な国家政策がありました。広大な国土に対して人口が少なかったため、政府は移民によって労働力を増やし、農業や産業を発展させようと考えたのです。
1853年に制定されたアルゼンチン憲法の第25条には、連邦政府が「ヨーロッパからの移民を奨励する」と明記されました。思想家フアン・バウティスタ・アルベルディが唱えた「統治するとは人口を増やすことである」という考えも、当時の国家建設に大きな影響を与えました。
1876年の移民・植民法、いわゆるアベジャネーダ法では、移民を受け入れるための行政組織、到着後の一時的な宿泊、国内各地への移動支援などが整備されました。こうした政策は単なる人口増加策ではなく、当時の支配層がヨーロッパを近代化の模範とみなし、欧州移民によって国を発展させようとしたものでもありました。その考え方には、先住民やアフリカ系住民を低く見る当時の人種観も含まれていました。

政府が移民を募集しただけで、数百万人もの人が来たわけではありません。当時のアルゼンチンには、移住先として選ばれる経済的な魅力がありました。
19世紀末から20世紀初めにかけて、アルゼンチンは肥沃なパンパを利用し、小麦、トウモロコシ、牛肉、羊毛などをヨーロッパへ輸出する農牧業国として急成長しました。鉄道、港湾、食肉加工、建設、商業でも多くの労働力が必要となりました。
一方、当時のイタリアやスペインでは、農村の貧困、土地不足、人口増加、失業などが深刻でした。蒸気船の発達によって大西洋を渡る費用と時間が以前より少なくなり、先に移住した家族や同郷者を頼る「連鎖移民」も広がりました。ヨーロッパ側の押し出す力と、アルゼンチン側の引きつける力が重なったのです。
アルゼンチンの人口構成を考えるうえで重要なのは、移民の人数だけでなく、移民が来る前の人口が比較的少なかったことです。
ヨーロッパ人が数百万人到着したとき、アルゼンチンの総人口そのものがまだ数百万人規模でした。そのため、同じ人数の移民を人口の大きな国が受け入れる場合よりも、社会全体に占める割合が高くなりました。さらに移民の多くがブエノスアイレスやロサリオなどの都市部、パンパの農業地帯に集中したため、外国から見たアルゼンチンの印象はいっそう「ヨーロッパ的」になりました。
「アルゼンチンにはもともと先住民がほとんどいなかった」という説明は正確ではありません。現在の国土には、マプチェ、テウェルチェ、グアラニー、コージャ、ディアギータ、ケチュア、ウィチ、コムなど、多様な先住民族が暮らしてきました。
19世紀後半、アルゼンチン政府はパンパやパタゴニアへの支配を広げるため、「砂漠の征服」と呼ばれる軍事作戦を行いました。しかし、そこは無人の砂漠ではなく、多くの先住民が生活していた土地です。軍事作戦によって多数の人が死亡し、捕らえられ、移住を強いられ、共同体の土地が国家や大土地所有者の手に渡りました。
その後の同化政策や差別によって、先住民のルーツを公に語らない人も増えました。一方で、先住民族が消滅したわけではありません。特に北西部、北東部、パタゴニアでは、先住民の文化や祖先とのつながりを持つ人々が現在も多く暮らしています。
植民地時代のアルゼンチンには、奴隷としてアフリカから連れてこられた人々と、その子孫が多数暮らしていました。アフリカ系住民は労働、軍事、音楽、宗教、言語など、アルゼンチン社会の形成に重要な役割を果たしました。
かつては「アフリカ系住民は独立戦争や感染症ですべて亡くなった」と説明されることがありました。しかし、実際には一つの原因で突然消えたのではありません。戦争や病気による死亡に加え、異なる集団との結婚、国勢調査における分類の変更、大量の欧州移民による人口比率の低下、そして国家が「白いアルゼンチン」というイメージを強調したことによる社会的な不可視化が重なりました。
2022年の国勢調査では、アフリカ系である、または黒人・アフリカ人の祖先を持つと回答した人は30万2,936人で、一般世帯に暮らす人口の0.7%でした。この数字は自己認識に基づくものであり、アフリカ系の祖先を持つすべての人を示すものではありません。
アルゼンチン人のうち何%が白人なのかを示す、信頼できる公式の数字はありません。アルゼンチンの国勢調査は、国民全員を「白人」「混血」「黒人」などに分けて集計していないためです。
2022年の国勢調査では、先住民族である、またはその子孫であると自己認識した人は130万6,730人で、人口の2.9%でした。アフリカ系については30万2,936人、0.7%でした。ただし、これらは外見やDNAによる分類ではなく本人の回答です。先住民やアフリカ系の祖先がいても、そのように自己認識していない人は数字に含まれません。
遺伝学的な研究からも、アルゼンチンの人口が単純な「欧州系だけ」ではないことが分かっています。2012年に国内各地域の441人を対象とした研究では、標本全体の平均的な祖先構成は欧州系65%、先住民系31%、アフリカ系4%と推定されました。ただし、これは全国民の割合を確定する国勢調査ではなく、調査地域や標本、分析方法によって結果は変わります。研究では、ブエノスアイレス周辺と北西部の間に大きな地域差があることも示されました。
アルゼンチン全土を、ブエノスアイレスの印象だけで語ることはできません。
テレビ、観光写真、サッカー中継などではブエノスアイレス出身者や大都市の住民を見る機会が多いため、それが国全体の姿であるかのように受け取られやすい面もあります。
南米の国々で人口構成が異なるのは、植民地化以前の人口、奴隷貿易、植民地時代の産業、独立後の移民政策がそれぞれ違っていたからです。
ペルーやボリビアでは、スペインによる征服以前からアンデス地域に大きな先住民社会が存在し、その人口と文化が現在まで強く残っています。ブラジルでは、サトウキビ農園や鉱山などの労働力として、非常に多くのアフリカ人が奴隷として連れてこられました。
アルゼンチンにも先住民とアフリカ系住民の歴史がありますが、19世紀末から20世紀初めに、当時の人口に比べて非常に大きな規模の欧州移民を受け入れました。この移民の「絶対数」だけでなく「人口に対する比率」が高かったことが、近隣国との大きな違いです。

欧州からの大規模移民は20世紀半ばまでに減少し、その後はパラグアイ、ボリビア、チリ、ペルー、ウルグアイなど、近隣の南米諸国から移住する人が増えました。近年はベネズエラからの移住も目立ちます。
2022年の国勢調査では、外国生まれの住民は約200万人で、総人口の約4.2%でした。現在の移民の中心はヨーロッパではなくラテンアメリカ諸国です。アルゼンチンを「ヨーロッパ人の子孫だけで構成された国」とみなすことは、歴史的にも現在の実態からも正確ではありません。
アルゼンチンに白人が多く見える最大の理由は、19世紀後半から20世紀前半に、イタリアとスペインを中心とするヨーロッパ移民が大量に到着したことです。政府が欧州移民を積極的に奨励し、農牧業を中心とした経済成長が移民を引きつけました。もともとの人口が少なかったため、移民とその子孫が人口構成に与えた影響も非常に大きくなりました。
しかし、その歴史の裏側には、先住民の土地の収奪や、アフリカ系住民の存在を見えにくくしてきた国家と社会のあり方もあります。アルゼンチンは欧州系の影響が強い国である一方、先住民系、アフリカ系、中東系、アジア系、近隣のラテンアメリカ諸国出身者など、多様なルーツを持つ人々によって形づくられた国です。