1945年8月、第二次世界大戦の終盤、アメリカは日本の都市・広島と長崎に原子爆弾を投下しました。これにより数十万人の民間人が命を落とし、世界に衝撃を与える出来事となりました。では、なぜ数ある日本の都市の中で、広島と長崎が標的とされたのでしょうか?この記事では、その理由を歴史的背景とともに詳しく解説します。
アメリカが原子爆弾を投下した主な目的は、日本に早期降伏を促すことでした。1945年夏の時点で日本は敗戦濃厚でしたが、依然として本土決戦の構えを見せており、アメリカ軍は日本本土侵攻に多大な犠牲が伴うと予測していました。
また、ソ連の参戦が迫る中、アメリカは戦後の国際政治における主導権を握るために、原爆の威力を世界に示す必要があるとも考えていたのです。
さらに、莫大な国家予算をつぎ込んで完成させた「マンハッタン計画」による原子爆弾が、実戦での使用なしに終わってしまえば、国内での説明責任が問われるとの懸念もありました。つまり、実験ではなく「本番」での使用が、政治的にも軍事的にも求められていたのです。
広島は原爆投下の第1の目標都市でした。その理由は以下の通りです:
また、広島には学術機関や病院なども多数存在しており、投下後の被害分析において「比較対象」としてのデータを得やすい都市だったとされます。このような冷徹な判断が、軍部や科学者の間でなされていたのです。
長崎は当初からの第一候補ではありませんでした。以下の経緯があります:
ではなぜ長崎が代替目標に選ばれていたのか?
加えて、長崎はキリスト教徒が多く暮らす地域でもあり、欧米諸国にとって文化的な注目の的であったとも言われます。この投下は、宗教的・文化的な影響の分析という冷静な科学観察の一環として見られていた可能性も否定できません。
原爆投下の候補都市としては、次のような都市も挙げられていました:
特に京都は有力な候補でしたが、アメリカ政府内で「文化財の損失が戦後の外交に悪影響を及ぼす」として最終的に外されました。国務長官スティムソンは、京都を訪れた経験からその価値を強く認識しており、個人的にその除外を強く働きかけたと言われています。
広島と長崎が選ばれた理由は、単に軍事的目標だっただけでなく、「新兵器である原爆の威力を最大限に示す」という意図が強く働いていました。また、戦後の国際政治における力の誇示や、投下後の被害観測データの収集も背景にあります。
その結果として、何十万人もの民間人が犠牲となり、人類史上最初の核兵器使用という深い悲劇をもたらしました。今なお広島と長崎は、核兵器廃絶の象徴的な都市として世界にその教訓を伝え続けています。
さらに、これらの出来事は戦後の核兵器政策、国際条約(核拡散防止条約=NPTなど)にも深く影響を与え、今なお各国の安全保障や倫理観を問い直す原点となっています。私たちは過去の事実を忘れず、未来に同じ過ちを繰り返さないための努力を続ける責任があります。