ニューヨーク・メッツは、メジャーリーグベースボール(MLB)で最も多くの日本人選手が所属した球団です。これまでに14人の日本人選手が在籍し、彼らはその才能とパフォーマンスでチームに貢献してきました。以下に、これらの選手たちについての概要を紹介します。
メッツに在籍したこれらの選手たちは、ピッチャーから野手までさまざまなポジションで活躍し、チームの成績向上に貢献してきました。また、彼らの成功は、後の日本人選手にとっての道筋を示し、MLBでの日本人選手の存在感を高める役割を果たしています。
このような多数の日本人選手が一つのチームに集まることは、文化的交流の側面でも重要であり、日本とアメリカの野球ファンの間での理解と繋がりを深める一因ともなっています。メッツにとって、これらの日本人選手はただの選手以上の存在であり、球団の歴史において重要な役割を果たしていることは間違いありません。
柏田貴史は、1997年にニューヨーク・メッツで歴代最初の日本人選手としてプレーした左腕投手です。MLBでのキャリアは1年限りで、35試合に登板して0勝1敗、防御率4.31という成績を残しました。派手な数字ではありませんでしたが、日本からMLBへの挑戦者がまだ少なかった時代に、貴重な先例となった存在です。帰国後は中日ドラゴンズなどでプレーし、コーチとしても後進の指導に携わるなど、野球界への貢献を続けました。メッツでの経験は、彼の野球人生における大きな転機となりました。
吉井理人は、日本での実績を引っ提げてMLBに挑戦し、1998年から1999年にかけてニューヨーク・メッツでプレーしました。2年間で50試合に登板し、14勝14敗、防御率4.50という堅実な成績を残しました。特に制球力と配球の巧みさには定評があり、当時のメッツ先発陣の中でも信頼される存在でした。また、MLB経験を活かしてその後はコーチとしても活躍し、日本ハムファイターズの監督にも就任。日本とアメリカ双方の野球文化を熟知する人物として評価されています。
野茂英雄は1995年にMLBへ渡った先駆者として知られ、ロサンゼルス・ドジャースでの活躍で一躍有名になりました。1998年にはメッツにトレード移籍し、リリーフ登板を中心にプレーしました。登板数こそ多くはありませんでしたが、その存在感は依然として健在で、彼のトルネード投法は観客を魅了しました。日本人投手としての可能性を世界に示した野茂のメッツ在籍は短期間でも意義深く、今でも語り草になっています。
新庄剛志は、その明るいキャラクターと卓越した守備力で知られる外野手です。2001年にメッツに加入し、センターの守備では抜群の肩と瞬発力を発揮しました。打撃面では打率.268、10本塁打、56打点と堅実な成績を残し、攻守両面でチームを支えました。2002年には一時ジャイアンツに移籍するも、2003年に再びメッツに戻り、ファンから熱い歓迎を受けました。彼のプレースタイルと個性は、メジャーリーグにおいても強く印象づけられました。
長年ロッテで活躍した知性派右腕、小宮山悟は2002年にメッツに移籍しMLBに挑戦しました。登板機会は34試合と比較的多かったものの、成績は0勝3敗、防御率5.61と苦戦しました。MLB特有の強打者や異なる審判基準に順応する難しさもありましたが、その経験は後のキャリアに大きな影響を与えました。引退後は大学教授や解説者としても活動し、データや理論に基づいた野球分析でファンからの支持も厚い人物です。
日本球界を代表するスイッチヒッターであった松井稼頭央は、2004年に高い期待を背負ってメッツと契約しました。メジャー初打席で初球ホームランという衝撃的なデビューを飾り話題となりましたが、守備面では失策が目立ちました。最初は遊撃手として起用され、その後セカンドへのコンバートを経験。3年間で239試合に出場し、打率.256、11本塁打、68打点、33盗塁という成績を残しました。スピードと巧打が光り、日米野球の架け橋となった選手の一人です。
ドジャースでの成功を経て、2005年にメッツへと移籍した左腕投手・石井一久。変化球主体の投球スタイルと時折見せる大胆な速球が持ち味でした。メッツでは20試合に先発登板し、3勝9敗、防御率5.14という成績に終わりましたが、球団の先発ローテーションを支えました。制球難に悩まされる場面も多かったものの、その独自のキャラクターとユーモアあふれる言動でもファンに親しまれました。
日本プロ野球通算286セーブを誇る名クローザー・高津臣吾は、2005年にメッツでプレーしました。前年はホワイトソックスでMLB初セーブを挙げた彼でしたが、メッツでは9試合の登板にとどまりました。特徴的なサイドスローと緩急を活かした投球で、短期間ながら印象を残しました。日本復帰後はヤクルトで再びセーブ王に輝き、現在は監督としても手腕を発揮しています。
40歳に近い年齢でMLBに初挑戦した遅咲きの左腕・高橋建は、2009年にメッツとマイナー契約を結び、シーズン中に昇格を果たしました。28試合に登板し、防御率2.96と安定したリリーフ投球を見せました。年齢にそぐわぬタフネスと冷静な投球で、チームからも信頼される存在となり、日本の野球ファンに勇気を与える活躍を見せました。
2010年にメッツに入団した左腕・高橋尚成は、その年に53試合登板、10勝6敗、防御率3.61、さらに8セーブを記録しました。先発、中継ぎ、抑えとあらゆる役割を器用にこなす万能タイプの投手であり、そのフル回転ぶりはチームに大きな貢献をもたらしました。メジャーでの1年目にしてこの活躍は高く評価され、後の複数球団との契約にもつながりました。
五十嵐亮太は2010年にメッツ入りし、2年間で79試合に登板しました。パワフルな速球を武器にリリーフとして起用されましたが、防御率5点台とMLBの壁に苦しむ場面も見られました。それでもメジャー初年度は5勝を挙げるなど存在感を示し、翌年以降も複数球団でプレーしました。帰国後はソフトバンクを中心にNPBで活躍し、40代まで現役を続けた鉄腕投手として知られます。
ボストン・レッドソックスを退団後、松坂大輔は2013年にメッツと契約し、再起を図りました。2年間で41試合に登板(うち16先発)、6勝6敗、防御率4.06という成績を残しました。肩の故障明けで調整が難航する時期もありましたが、経験と技術を活かした粘り強い投球でチームを支えました。日本時代の「平成の怪物」としての華やかなイメージから一転、苦難の中で見せたプロフェッショナルな姿勢も高く評価されました。
青木宣親は、2017年にヒューストン・アストロズからウェーバーを経てメッツに加入しました。移籍後も安定したコンタクト能力を発揮し、打率.284を記録。選球眼や走塁技術にも定評があり、リードオフマンとしての役割を果たしました。メッツでの在籍は短期間でしたが、MLBで通算7球団を渡り歩いた実績と順応力は他の日本人選手にも好影響を与えました。
千賀滉大は福岡ソフトバンクホークスからポスティング制度を利用して、2023年にメッツと5年契約を結びMLBに挑戦しました。初年度から29試合に先発し、12勝7敗、防御率2.98、202奪三振を記録。特に「ゴーストフォーク」と呼ばれる鋭く落ちるフォークボールはMLBでも大きな注目を集め、サイ・ヤング賞投票でも票を獲得しました。現在もエース格としてチームを支えており、日本とアメリカの野球界をつなぐ新たなスターとして期待が高まっています。
2025年現在、ニューヨーク・メッツに在籍している日本人選手は、右投げのピッチャー、千賀滉大です。彼は2023年4月2日に30歳でメッツでのMLBデビューを果たしました。メッツに加入する前は、日本の福岡ソフトバンクホークスでプレーしていました。千賀はそのピッチング技術で知られており、メッツの投手陣にとって貴重な存在です。