2022年7月8日、奈良市でおきた安倍晋三元首相銃撃事件は、日本社会に大きな衝撃を与えました。現在、山上徹也被告を被告人とする裁判員裁判が進行しており、判決は2026年1月に言い渡される予定と報じられています。
本記事では、「山上徹也は死刑になるのか?」というテーマのもと、
といった点を整理しながら、今後の量刑を考えるうえでの視点をまとめてみます。
※本記事は、報道をもとにした一般的な法制度・判例の解説であり、特定の量刑を断定したり、裁判所の判断を予断したりするものではありません。
日本で「死刑か、無期懲役か」を判断するとき、しばしば参照されるのが、いわゆる**「永山基準」**です。これは、1968年に起きた連続射殺事件(永山則夫事件)の上告審判決で、最高裁が示した量刑判断のための9つの要素です。
一般に挙げられる9項目は、次のとおりです。
裁判所は、これらの要素を総合的に考慮し、「極刑(死刑)もやむを得ない」と言えるかどうかを判断するとされています。
日本では、「成人が3人以上を殺害した場合、死刑が選択されやすい」という傾向があると言われています。実際、複数人を殺害した無差別殺傷事件や放火殺人事件などでは、死刑判決が言い渡された事例が多数あります。
一方で、
となったケースも存在します。特に、
といった事情が重なると、被害者が1人でも死刑とされた判決があることが、判例分析や法学の解説などで指摘されています。
つまり、
「複数人殺害でなければ死刑にならない」
というのは、あくまで傾向を大雑把に表現した目安に過ぎず、絶対的なルールではありません。
続いて、安倍元首相銃撃事件の特徴を、「永山基準」のいくつかの要素に沿って整理してみます。
山上被告は、旧統一教会(世界平和統一家庭連合)への強い恨みや、家族が経済的に追い詰められた経験から、「その象徴として安倍元首相を狙った」と供述していると報じられています。
宗教団体の問題提起という側面を語る人もいますが、法的には、選挙遊説中の元首相を狙った政治的テロ性の高い殺人事件と評価されるのが一般的とみられます。
という点から、犯行の性質(罪質)や動機の面では、極めて重く評価される可能性が高いと考えられます。
事件では、山上被告が自作の銃を用い、事前に何度も試射や下見を行っていたことが報じられています。これは、突発的な衝動ではなく、
といった、相当に計画的な犯行だったことを示しています。
態様の面からも、
「計画性が強い」「社会に与えた恐怖も大きい」
と評価される可能性が高いと言えます。
被害者の数という意味では、亡くなったのは安倍元首相1人です。この点だけを切り取れば、「複数人殺害ではない」という事情は、量刑判断において重要な要素になるでしょう。
しかし一方で、
といった事情から、社会的影響は戦後日本でも突出して大きい事件と評価されます。
この記事を書いている時点でも、
など、社会・政治・宗教を横断する議論が続いており、事件の影響の大きさは現在進行形で続いていると言えます。
ここが、読者の方も疑問に感じているポイントだと思います。
「一般に死刑は複数人殺害の場合が多いのに、山上事件では被害者は一人。それでも死刑になり得るのか?」
まさにこの点で、
のどちらを、どのように重く見るのかが、大きな争点になると考えられます。
先ほど触れたように、永山基準では、
は重要な要素ですが、それだけが決定要因ではありません。日本の裁判例をみると、
が、いずれも存在します。
そこではむしろ、
といった点が、被害者数とあわせて厳しくチェックされています。
永山基準の中には、明示的に**「社会的影響」**という項目があります。これは、
などを総合的に評価する要素です。
政治家や裁判官、警察官、あるいは無差別に不特定多数の市民を狙った事件などでは、「社会的影響」が大きく、重く評価される傾向があります。特にテロ事件や無差別殺傷事件では、この点が死刑選択の重要な理由の一つとされてきました。
ただし、裁判所は基本的に、
「社会的影響だけ」で死刑を選ぶ
というより、
などとあわせて総合的に考える、というスタンスをとっていると理解されています。
ここからは、あくまで一市民としての視点・考え方として、「山上徹也は死刑になるのか?」を整理してみます。
死刑の方向に働き得る要素としては、次のような点が挙げられます。
こうした点から、「通常の一人殺害事件」と比べても、責任の重さが格段に大きいと評価される可能性があります。
一方で、死刑を回避する方向に働き得る要素として、次のような事情も指摘されています。
現時点の報道では、山上被告は法廷で「弁解の余地はない」「間違いだった」といった趣旨の発言や遺族への謝罪も行っているとされており、こうした点が「犯行後の情状」としてどう評価されるかも重要になります。
ご質問でも触れられているように、今回の事件については、
という疑問が出てきます。
実際のところは、
「凶悪性」と「社会的影響」は切り離せず、両方が重なって評価される
と考えるのが自然だと思われます。
という構図です。
本稿執筆時点では、まだ判決前であり、
は確定していません。
この事件は、
といった、多くの重いテーマを私たちに突き付けています。
量刑の結論がどうであれ、
を考え続けることが、事件の社会的影響に向き合うという意味で、私たち一人ひとりに求められているのではないでしょうか。
この事件をきっかけに、「死刑とは何か」「犯罪と社会の関係をどう考えるか」を、感情的な賛否だけでなく、制度や判例の事実を踏まえて考えることが求められているように感じます。