第二次世界大戦後、日本は連合国の占領下に置かれました。その中で新たに制定されたのが「日本国憲法」であり、とりわけ注目されるのが第9条です。
この条文には、戦争の放棄や戦力不保持が明記されていますが、「いったい誰が憲法9条を作ったのか」「なぜこのような内容になったのか」については、今なお議論が尽きません。
この記事では、憲法第9条の成立過程を、GHQ(連合国軍総司令部)の関与、自衛権をめぐる曖昧さ、冷戦期の国際政治情勢を背景に、わかりやすく解説していきます。
まず、憲法第9条の内容を簡単に確認しておきましょう。
これにより、日本は戦争や武力行使、交戦権の保持を禁じられています。ただし、「自衛」のための武力保持については明記されておらず、長年にわたって憲法解釈の争点となってきました。
戦後すぐの段階では、GHQは日本人の手で新しい憲法を作らせる方針を取っていました。マッカーサー総司令官は、日本政府に対して「自主的な憲法改正案を提出せよ」と指示したのです。
この指示を受けて、日本政府は「憲法問題調査委員会」(委員長:松本烝治)を設置し、新憲法案の起草作業を開始しました。この「松本案」と呼ばれる草案は、旧大日本帝国憲法の枠組みをほぼそのまま残し、天皇主権や軍制などにも手を加えない、極めて保守的なものでした。
1946年2月、松本案を受け取ったGHQ民政局はその内容に激しく失望します。
これを見たマッカーサーは、「このような案では国際的に通用しない」と判断し、GHQが独自に憲法草案を作成する決断を下します。
GHQの憲法草案作成は、民政局のチャールズ・L・ケーディスを中心に進められました。彼は弁護士であり、アメリカ式民主主義の理念に強い信念を持っていた人物です。
この草案には、「戦争放棄」「戦力不保持」「国民主権」「男女平等」「基本的人権の尊重」など、戦後民主主義の柱が盛り込まれました。
実は、このGHQ草案の初期段階では、「自衛のためであっても軍備を持たない」という表現が含まれていたとされています。しかし、ケーディスはこれを削除します。
ケーディスは次のように考えました。
自国を守るための自衛権は、国際法上認められた当然の権利である。これを憲法で否定するのは非現実的である。
そのため、「自衛のためであっても戦力を持たない」という文言は削除され、最終的な草案には自衛について明記しない曖昧な条文が残されました。
この削除について、ケーディスはマッカーサーに報告しましたが、マッカーサーはこれに異議を唱えず承認したとされています。
この急ピッチの憲法策定には、当時の国際情勢も深く関わっていました。
GHQは、「日本が自前で憲法を作るまでの間にソ連が干渉してくる」ことを恐れ、アメリカ主導の「民主的憲法」を迅速に制定させる必要があったのです。
GHQ案を元に、日本政府は翻訳・調整を行い、政府案として国会に提出しました。
日付 | 出来事 |
---|---|
1946年2月13日 | GHQ草案が日本政府に提示される |
3月6日 | 日本政府が修正・翻訳した憲法草案を公表 |
11月3日 | 日本国憲法公布(文化の日) |
1947年5月3日 | 日本国憲法施行(憲法記念日の由来) |
第9条には、たしかに「戦力は保持しない」とありますが、「自衛のための実力の保持」に関する記述がまったくありません。
これは、ケーディスが該当箇所を削除したが、代替案を明記しなかったためです。
関与者 | 役割 |
🇺🇸 GHQ(マッカーサー、ケーディス) | 実質的な草案を作成し、日本に提示 |
🇯🇵 幣原喜重郎 | 戦争放棄条項の発案者とする説もあり(諸説あり) |
🇯🇵 松本烝治ら | 日本語訳および最終的な政府案を作成 |
🇯🇵 帝国議会 | 最終的に憲法案を承認し、公布へ |
憲法第9条は、マッカーサーの政治的判断とケーディスの法的判断が組み合わさって生まれた条文です。その背後には、冷戦の幕開けとソ連の影響を防ぎたいアメリカの地政学的な意図がありました。
完全に「押し付けられた」とは言い切れません。GHQが草案を作成したのは事実ですが、日本政府はそれを翻訳・修正し、帝国議会で正式に審議・承認しています。
アメリカ主導で始まり、日本政府が承認した「合作的な経緯」を持つ条文と言えるでしょう。
当初は「自衛のためであっても戦力は持たない」と書かれていましたが、ケーディスがそれを削除しました。しかし、代わりの表現は加えられず、そのまま採用されたため、「自衛」が憲法上で曖昧になったのです。
憲法第9条の成立過程をたどると、単に「誰が作ったか」という問題だけでなく、戦後の国際政治や法解釈、そして日本の将来像をめぐる選択が見えてきます。
その意味で、憲法9条は単なる条文ではなく、日本という国家の進路を大きく左右してきた象徴的な存在なのです。