「十島村」という名前を聞いて、どこを思い浮かべるでしょうか?鹿児島県本土から南に連なるトカラ列島。美しい海に浮かぶ7つの有人島と、多くの無人島からなるこの村は、実は非常にユニークな自治体です。なぜなら――役場が本土の鹿児島市にあるのです。
離島の自治体なのに、本庁が本土にあるなんて不思議ですよね。
なぜ十島村役場は本土・鹿児島市にあるのでしょうか?
十島村役場鹿が児島市にあるのにはきちんとした理由があるのです。今回は、十島村役場が鹿児島市に置かれている背景を、歴史・交通事情・村民の暮らしの面から解き明かします。
もともと十島村は、口之島や中之島など10の島々を含む、トカラ列島全域を村域としていました。村役場はかつて、列島のほぼ中央に位置する中之島に置かれていたのです。
ところが、歴史が十島村を大きく揺るがします。第二次世界大戦後、1946年2月、連合国軍(GHQ)の命令により、北緯30度以南の島々が日本本土から分離され、アメリカの施政下に置かれたのです。これにより、トカラ列島の南側の7つの島(下七島)はアメリカの統治下へ。中之島を含む北側の3島(上三島)は日本領に残りました。
この分断によって、中之島にあった役場は、下七島への行政が届かなくなり、機能を失います。さらに1952年、サンフランシスコ講和条約の発効により下七島が日本に返還されると、上三島は三島村として分村し、十島村は下七島のみを村域とする形になりました。
こうして、十島村の行政は事実上、南側7島を対象にすることになったのです。
では、役場を下七島のどこかに置けば良いのでは?と思うかもしれません。しかし、それが簡単にはいかない理由が交通事情です。
十島村の7つの有人島は、北から南まで約160kmも連なっており、島と島を行き来するのは週にわずか2回のフェリー「フェリーとしま2」だけ。しかも天候が荒れればすぐ欠航。台風シーズンには1週間、時にはそれ以上も船が止まることがあります。
もし役場をどこかの島に置いたとしても:
こうした課題が立ちはだかっていたのです。
実際、1956年までは中之島に「本庁舎」を置きつつ、鹿児島市内に「出張所」を設ける形で運営していました。しかし、役場職員の多くが常に鹿児島市に滞在しており、出張費や滞在費が村の財政を圧迫。なんと村の予算の約1割が旅費や宿泊費に消える年もあったと言われています。
歴史や交通だけが理由ではありません。十島村の住民たちの日常生活そのものが、鹿児島市と深く結びついていることも大きな理由です。
こうした生活上の重要な用事は、ほとんど鹿児島市で行われます。特に医療面では、村には十分な医療施設がないため、急患や大きな病気は必ず本土へ搬送されます。
若者が進学で島を離れるのは珍しくなく、高齢者も病気治療のため長期間、鹿児島市内に滞在する例が多いのが現実です。つまり、十島村民にとって鹿児島市は「生活圏」の一部であり、役所もその生活圏内にあった方が圧倒的に便利なのです。
実は十島村だけが特別ではありません。鹿児島県内では、同じく離島自治体である三島村も鹿児島市に村役場を置いています。また、沖縄県の竹富町は、西表島や波照間島などを村域に含みますが、役場は石垣島に置かれています。
こうした例からも分かるように、交通手段が限られる離島では、本土や大きな都市に役場を置く方が効率的で現実的。役場を島内に置いたとしても、島民にとって不便になるだけでなく、行政コストが増大するリスクもあります。
こうして十島村役場が本土・鹿児島市に置かれている理由は、以下の通りです。
つまり、十島村役場が鹿児島市にあるのは、単なる「本土優先」の発想ではなく、村民の安心、安全、そして生活の利便性を確保するための合理的な選択なのです。
もちろん、本来なら島に役場がある方が理想でしょう。しかし、十島村ほど南北に長く、島ごとの移動に多大な労力と時間がかかる自治体は珍しく、本土に置かざるを得ない現実があるのです。
「十島村の役場は本土にある」というのは、一見すると不思議ですが、歴史や地理、島民の暮らしを知ると納得がいきます。むしろ、それは村民を支えるための知恵ともいえるでしょう。
トカラ列島は今も、自然豊かで独自の文化が息づく場所です。その暮らしを支える拠点として、鹿児島市の十島村役場は、離島と本土をつなぐ大切な橋渡し役を果たしているのです。