日産自動車の再建を託された内田誠氏は、商社出身という異色の経歴を持ちながら、グローバルな視点と実行力で自動車業界に新風を吹き込みました。彼のキャリアは単なる昇進の積み重ねではなく、現場経験をベースにした判断力と異文化への適応力によって培われてきました。本記事では、日産の内田誠社長の経歴を時系列で追い、その歩みをより詳細に振り返ります。
内田誠氏は1966年7月20日、東京都に生まれました。父親の仕事の関係で、小学1年生から5年生までをエジプトのカイロで過ごし、その後はマレーシアへ移り、中学2年生から高校2年生までをクアラルンプールで生活しました。この時期の生活が、彼の視野を大きく広げ、柔軟な思考と国際的な対応力を養う下地となりました。
エジプトではアラブ文化に、マレーシアではマレー系、中国系、インド系の多民族文化に触れ、日常生活においても異なる宗教的行事や生活習慣を体験することで、異文化との共生の難しさと豊かさを身をもって学んだとされています。
日産・内田誠氏の学歴は、国際経験と人文学的教養に裏打ちされたユニークなものです。父親の海外勤務に伴い、エジプトとマレーシアで幼少期から高校時代までを過ごしました。小学校時代を過ごしたカイロでは、日本とは異なる文化や生活習慣に触れ、宗教観や価値観の多様性に気づく貴重な経験を積みました。マレーシアでは多民族社会の中での生活を通じて、文化摩擦や相互理解の難しさと重要性を体感したといいます。
帰国後は同志社国際高校に進学。国際バカロレア的な視野を持つ環境で、英語力と国際感覚を磨きました。さらに哲学的・倫理的な思索にも触れ、学問の枠にとらわれず広い視野を持って学ぶ姿勢を育てたといいます。そして1991年3月には同志社大学神学部を卒業しました。
同志社大学は、キリスト教主義を基盤とする関西有数の私立大学であり、神学部では人間理解や倫理、宗教の役割を学ぶことができます。内田社長の出身大学であるこの学部で培われた「人を理解する力」や「対話の姿勢」は、のちの国際ビジネスや企業統治においても重要な役割を果たすことになります。
大学卒業後、総合商社・日商岩井株式会社(現・双日)に入社。最初は機械部門に配属され、産業機械の輸出業務などに携わりました。数年後に自動車部門へ異動し、海外の完成車販売や部品調達の実務に関わります。
中でもフィリピンへの長期駐在は、彼のキャリアにおける重要なターニングポイントでした。現地で日商岩井と三菱自動車工業が設立した合弁企業にて、現地法人経営の実務を経験。営業、経理、総務、現地当局との渉外など多岐にわたる業務をこなす中で、経営感覚を養いました。5年間の駐在期間中には、現地スタッフとの信頼関係構築にも尽力し、多文化環境下でのチームマネジメント力を高めました。
2003年10月、日産自動車にキャリアチェンジ。厚木テクニカルセンターの購買部門に配属され、自動車部品の調達と購買を担当します。当時の日産はカルロス・ゴーン体制下で大胆な改革を進めていた最中であり、コスト削減や仕入れ先の最適化といった課題に積極的に取り組みました。
その後、アライアンスの共同購買組織「RNPO(ルノー・日産購買機構)」にて、国境を越えたグローバルな購買戦略の策定と実行を担当。サプライヤーの統合管理や共通プラットフォームによるコスト削減など、日産の国際競争力強化に寄与しました。
2012年9月、韓国・ルノーサムスン自動車に出向。ここでは北米向け「エクストレイル」輸出プロジェクトの主導的役割を果たし、工場再編やサプライチェーン改善を実現しました。従業員の士気向上や品質管理プロセスの見直しにも尽力し、現地法人の収益回復に大きく貢献しました。
この取り組みはアライアンス内でも高く評価され、韓国現地法人における再建の立役者とみなされました。彼の現地での指導力は、日産グループ内での評価をさらに高めることとなります。
2014年4月、日産におけるプログラム・ダイレクターに就任。新興国市場を中心に展開された「ダットサン」ブランドの収益改善と事業戦略の見直しに取り組みました。
この役職では、製品ラインアップの最適化、投入タイミングの見直し、市場ごとのニーズへの柔軟な対応を図り、地域戦略の精度を高めることに注力しました。結果的にいくつかの市場では競争力のある価格と機能を両立させた車種が生まれ、ブランド価値向上につながりました。
2016年11月、日産自動車の常務執行役員に昇進。再びアライアンス購買を統括する立場となり、ルノー・日産・三菱の3社の連携強化を図りました。
調達コストの削減のみならず、サステナビリティや環境負荷低減の観点も取り入れた新たな購買方針を構築。グローバルでのESG対応の重要性が高まる中、調達戦略の進化をリードしました。
2018年4月、専務執行役員に昇進し、同時に中国・武漢を拠点とする日産の合弁企業「東風汽車有限公司」の総裁に就任。
中国市場の急激なEV化・デジタル化の流れをいち早く読み取り、現地開発と調達の推進、新エネルギー車(NEV)戦略の加速を図りました。現地政府との対話も積極的に行い、環境規制や税制対応も迅速に進める体制を構築しました。
2019年12月1日、日産の社長兼CEOに就任。カルロス・ゴーン氏の電撃的な逮捕とその後の混乱の最中、混迷を極める経営の立て直しを託されたかたちでした。
アシュワニ・グプタCOO、関潤COOとの3人体制での経営(通称「トロイカ体制」)が始まりましたが、後に関氏が辞任。組織内部の権限配分や透明性が課題として浮上し、経営改革は一筋縄ではいかない状況が続きました。
2020年5月28日、内田氏は事業再建に向けた大規模な改革計画「NISSAN NEXT」を公表しました。これは、過去最大級の赤字(6712億円)を受けての抜本的な経営見直しです。
同計画では、生産拠点の統廃合、固定費削減、新車投入の絞り込み、電動化戦略への集中、さらにはブランドの再定義と販売網の合理化まで、多岐にわたる施策が盛り込まれました。
2025年3月31日、内田氏は社長兼CEOを退任。後任には商品戦略責任者であったイバン・エスピノーサ氏が就任しました。
退任にあたり、日産から内田氏を含む元執行役4名に計6億4600万円の退職慰労金が支払われたことが報じられ、一定の成果を評価されたともいえます。一方で、NISSAN NEXTの成果は道半ばであり、評価は分かれています。
内田誠氏は、商社から自動車業界に転身した異色のリーダーでした。グローバルな現場経験と現実的な改革志向で、日産の経営再建に一定の足跡を残しました。
とくに中国・韓国など海外現地法人での指導力と、アライアンス戦略における実務経験は、企業統治とグローバル経営の両面で今後も注目されることでしょう。内田氏の歩みは、混乱と変革の時代における企業リーダーの在り方を映し出す好例といえます。