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かつて日本のツキノワグマは、乱獲・駆除・生息地の減少などによって、地域によっては絶滅寸前まで追い込まれていました。これに対して1990年代以降、国と自治体は「鳥獣の保護及び管理」「絶滅危惧種の保全」といった観点から、むやみに捕獲しない方針を取り、一定の地域では保護が優先されました。さらに、個体群のモニタリングや“指定管理鳥獣”としての管理が進んだことで、「少なすぎるから守る」という段階を抜け、再び子グマが生まれ、親グマが育つサイクルが回りやすくなりました。こうして、長期的には“底”を打って、じわじわ増えている地域が多いのです。
クマの頭数を抑えるうえで重要なのが「捕獲圧」です。かつては山間部に多くいた猟師が、シカやイノシシと一緒にクマも捕獲していましたが、現在は猟師の高齢化が進み、登録ハンターの数そのものも減っています。若い世代の参入もあるものの、かつての水準には届かず、「出没したクマをすぐさま地域で対処する」体制がとりにくくなっています。結果として、出没しても駆除されずに山に戻る個体、あるいは駆除されるまでに時間がかかる個体が増え、個体数の抑制が効きにくくなっています。
もう一つ大きな背景が、人間側の暮らしの変化です。農林業に従事する人が減り、かつて手が入っていた里山や薪炭林が管理されなくなった結果、藪や雑木が増えて見通しが悪くなりました。これが何を意味するかというと、クマが人間の生活圏のフチまで安全に移動できる“回廊”が増えた、ということです。クマは基本的に警戒心が強い動物ですが、身を隠しながら移動できるとなれば、行動範囲を広げやすくなります。つまり、人の側の「手入れが行き届いたオープンな里山」が減ったことが、クマにとっては“近づきやすい”環境をつくっているのです。
ブナ・ミズナラ・コナラ・クリなど、秋に実る木の実はクマにとって非常に重要なエネルギー源です。ところがこれらは毎年かならず豊作というわけではなく、地域によって「凶作の年」があります。山で十分な実がならないと、クマは冬眠前に体脂肪をためられません。すると、足りない分を補おうと、より安全な場所よりも“確実に食べ物がある場所”へ向かいます。それが、柿の木がある集落や、トウモロコシ・クリ・リンゴなどの農作物、さらにはゴミ置き場・ペットフードといった人の生活圏の食物です。つまり「山の餌が少ない年ほど人里での目撃が増える」という現象が起きます。これは2020年代に東北や北陸で何度も観測されているパターンです。
人が住む場所には、クマにとって魅力的なものが想像以上に多くあります。放置された柿の木、収穫し忘れた果樹、堆肥や家畜飼料、コンビニのゴミ、外に置きっぱなしのペットフードなどです。とくに秋〜初冬にかけては、これらが“濃縮されたカロリー源”として機能してしまいます。一度でもそれでお腹を満たせたクマは「このエリアに来れば食べ物がある」と学習してしまい、翌年以降も同じルートを使います。これが“人慣れ”を進め、さらに出没が増える悪循環をつくります。
温暖化により、積雪の時期や量が変わると、クマの冬眠入り・冬眠明けのタイミングもずれます。これによって、従来なら山にこもっていたはずの時期にもクマが動き回り、人と遭遇する機会が増えると考えられています。冬が短くなればなるほど、クマはより多くの食料を確保しなければならず、結果として人里に出てくるリスクも増します。
野生動物の世界では、個体数が増えると、若いオスを中心に新しいテリトリーを求めて移動する個体が出てきます。山の中の“いい場所”がすでに埋まっていると、空いているのは人間の生活圏に近いエリアです。こうした若い個体は経験が浅いため、警戒心よりも目の前の食べ物を優先しやすく、結果として人家のすぐ近くまで入り込みます。これも、出没件数の増加を押し上げる要因になっています。
ここまで見ると「クマが増えたから出るようになったのだ」と単純に思いがちですが、実際には地域差が大きいことも重要です。日本のクマは、北海道のヒグマ、本州〜四国のツキノワグマと、生息域も食性も少しずつ違います。また、同じ県内でも、山の実りの状況、里山の手入れ、狩猟者の数、農地のあり方、集落の防除(電気柵・追い払いの徹底度)によって、出没の頻度が大きく変わります。「今年は出たが、来年はほとんど出なかった」ということもあり、これは個体数そのものというより“食べ物と人の側の対策”が効いた結果です。ですから「日本中で一律にクマが激増している」と考えるより、「増えやすい条件が重なった地域で、クマと人の距離が急に近づいた」と見る方が実態に近いでしょう。
クマがかつてのように極端に少なかった時代には戻れませんし、戻るべきでもありません。山の生態系の頂点に近い位置にいるクマは、生物多様性の視点からも重要な存在だからです。一方で、人間の生活が脅かされるような出没や被害を放置することもできません。したがって今後は、
といった“人側の管理”を強化することが不可欠になります。ポイントは、クマをただ「全部捕ればいい」と考えるのではなく、地域ごとの実情に応じて「このくらいなら人と共存できる」という密度まで上手にコントロールしていくことです。
日本でクマの目撃や被害が増えている背景には、(1)保護による個体数の回復、(2)狩猟者の減少による捕獲圧の低下、(3)里山の管理放棄、(4)山のエサの凶作、(5)人里にある“おいしい資源”の増加、(6)気候変動による行動期間の変化、といった複数の要因が重なっています。どれか一つだけが悪いわけではなく、社会構造や暮らし方が変わったことで、クマにとって暮らしやすい日本になってしまった――その結果が今、私たちの目の前に表れている、と言えるでしょう。