日本に住んでしばらく経つ英語話者が使う「英語」には、ある種の共通点があります。まるで日本語が英語の中に根を張り、独自の変異種を生み出しているような現象――それが、**「マイジャパン症候群(My Japan Syndrome)」**です。
この記事では、よく知られる「conbini」「buchō」「izakaya」といった例に加え、**「しょうがない」「がんばって」「もったいない」「よろしく」「おつかれさま」**など、日本語の奥深さをそのまま輸入しようとする英語話者たちの様子を掘り下げます。
「マイジャパン症候群」は正式な言語学用語ではありませんが、海外のSNSやブログ、一部の言語学系ポッドキャストでじわじわと使われ始めた表現です。
これは主に、次のような現象を指します:
つまり、「言葉」だけでなく「文化ごと持ち込んでしまう」現象なのです。
私見では日本語にかなり流ちょうな英語ネイティブの話者が日本文化や日本語への深い理解があることをアピールするためにこのような日本語を使う場合もあれば、あまり日本語ができない話者が、自分はこんな日本語を知ってるんだとアピールしたい場合もあるように思えます。
もはや定番。アメリカの「convenience store」のイメージと、日本の清潔・高機能な「コンビニ」は別物だと感じる英語話者が多く、敢えて「conbini」と呼び分けるようになっています。
「bar」とも「pub」とも違う、日本特有の飲食スタイル。料理をシェアしながら、サラリーマンたちが「otsukare〜」と言い合うその雰囲気まで含めて「izakaya」として認識されています。
上下関係を重視する日本企業文化の象徴。英語圏においては階層構造を表す言葉が少ないため、そのまま使われがちです。
この言葉ほど日本的な諦観を含んだ単語は他にないでしょう。
日本に5年以上住んでいる英語話者の間では、冗談半分に “Shoganai, ne?” と言い合うのはよくあることです。
✅例文:My train was delayed again… shōganai.
“Do your best” ではなく、もっと温かく、情緒的で、相手を見守るような響きを持つのが「がんばって」。
✅例文:I know you’re nervous about the test. Ganbatte!
英語の “What a waste!” では、怒りや批判のニュアンスが強すぎる。「mottainai」は感謝・敬意・自然との共生を含んだ概念です。
✅例文:You’re throwing that away? Mottainai…
「どうぞよろしくお願いします」の短縮形。この言葉も翻訳が非常に難しいです。
✅例文:I’ll be away next week. You take care of the reports, yoroshiku.
職場文化に特化した、労いと連帯感の言葉。英語には直接的な対応語が存在しません。
✅例文:End of a long shift: “Otsukare!” “Yeah, you too.”
日本の学校・会社の上下関係を英語に持ち込むときに使われる。
✅例文:He’s my senpai, so I try not to disagree too strongly.
英語で “nostalgic” や “I miss it” と言っても伝わらない、じんわりとした「心の温度」がある。
✅例文:Hearing this old anime song again… so natsukashii.
「マイジャパン症候群」は単なる言語の混合ではありません。それは、
といった、**「生きた言語の運動」**を象徴しています。
日本語が英語話者の中に入り込み、翻訳できない概念をそのまま残して使われることで、むしろ英語の表現力が広がっているとも言えるのです。
「sushi」「karate」「anime」など、日本語が英語になった例は昔からあります。しかし、「マイジャパン症候群」はより日常的で、「感情」や「人間関係」に深く関わる言葉を英語に持ち込んでいる点で画期的です。
これらは、単なる「外来語」ではなく、「共感装置」として英語内で機能し始めているのです。
「マイジャパン症候群」というと一見ネガティブな印象を受けますが、実際はむしろポジティブな適応現象です。
そして、それは外国人だけでなく、日本人にも新しい言語観をもたらしているのかもしれません。
日本語を学ぶ英語話者たちが、自分の体験や思いを「そのまま」表現するために日本語を英語の中に取り込む姿は、むしろ普通でく、創造的です。
もしあなたが英語を話すときに「otsukaresama」「shōganai」「mottainai」を使いたくなったら、それはもうあなた自身がマイジャパン症候群の当事者かもしれません。
それは、「病気」ではなく、言葉の冒険の証です。