「サンフランシスコ講和条約(サンフランシスコ平和条約)」は、第二次世界大戦後の日本の国際的な立ち位置を決めた、きわめて重要な条約です。ところがこの条約には、中国が参加していないという大きな特徴があります。
ここで言う「中国」は単純ではありません。1951年当時、国際社会では中華人民共和国(北京政府)と中華民国(台湾・台北政府)という二つの政府が、どちらが「中国」を代表するのかをめぐって対立していました。サンフランシスコ講和条約が「中国抜き」になった背景には、このねじれと冷戦構造が深く関わっています。

サンフランシスコ講和条約は、1951年9月8日に米国サンフランシスコで署名され、1952年4月28日に発効しました。一般に、ここで日本は戦後の占領期を終え、主権を回復したと整理されます。
この条約で何が決まった?(代表的なテーマ)
※同じ日(1951年9月8日)に日米安保条約(旧安保)も署名され、講和と安全保障がセットで動いたことも重要ポイントです。
1951年当時、国連の中国代表権も含め、国際社会では「中国を代表する政府はどこか」が割れていました。戦後中国では内戦を経て、1949年に中華人民共和国(PRC)が成立し、国民党政府は台湾へ移りました(中華民国・ROC)。
この状況で「中国を条約に参加させる」と言っても、北京を呼べば台北が反発し、台北を呼べば北京が反発します。加えて当時の冷戦構造の中で、米国を中心に「どちらを招くか」は安全保障上の判断とも結びついていました。
1950年に朝鮮戦争が勃発し、中国(PRC)は「中国人民志願軍」として参戦しました。西側から見ればPRCは敵対勢力になり、講和会議へ招く政治的ハードルは上がりました。
その結果、サンフランシスコ講和条約の会議は、PRCもROCも正式な署名国として参加しない形で進みます。つまり「中国を外した」というより、当時の国際政治の現実として、“中国代表問題を条約会議の場で解けない”という判断に近い構図でした。
ここがおもしろい(そして厄介)ポイント
日本にとっては「早く主権回復して国際社会へ戻る」ことが最優先でした。一方で「中国をどう扱うか」は、戦後アジアの秩序と直結します。優先順位の衝突が、条約に“未確定領域”を残しました。
サンフランシスコ講和条約で頻繁に議論されるのが、台湾の扱いです。条約では日本が台湾・澎湖(Pescadores)などに対する権利や請求権を放棄する、といった形で整理されます。
ただし重要なのは、一般的な理解としてこの条約は、「放棄」は明記しても、「どこへ帰属させるか(受け皿)」を明記していない点です。これは、中国(PRC/ROC)が署名当事国にならなかったことと、強く結びついています。
結論だけ先に言うと
中国(特にPRC)側の視点からは、サンフランシスコ講和条約はしばしば「不完全な講和」「一部の国が主導した枠組み」と見られます。理由は単純で、戦中・戦後の対日関係に深く関わった当事者の一つなのに、条約の当事国になっていないからです。
ROC(台湾側)もまた、国際政治の流れの中で難しい立場に置かれました。形式的に参加したわけではないため、条約の枠内で「中国」として処理されませんでした。
※このあと日本は、講和条約とは別の枠組みで、1952年に日華平和条約(日本とROC)を結びます。しかし1972年の日中共同声明(日本とPRC)により、その位置づけは大きく変化していきます。
サンフランシスコ講和条約で戦後処理が一気に整理されたように見えて、東アジアでは実際にはそう単純ではありませんでした。中国が署名国でないため、日中関係の“戦後の決着”は、後から別の形で積み重ねられます。
台湾の帰属や地位をめぐる議論は、国際政治の最前線で今も続いています。その背景として、講和条約が「放棄」までは書けても、帰属先を確定させる法的・政治的決着が条約本文に置かれなかったことが、論点の土台になりやすいのは確かです。
ただし、ここは誤解が生まれやすいところでもあります。条約本文だけを切り取って「だから台湾は未定だ」と断定してしまう議論もあれば、逆に「条約で中国に返った」と短絡してしまう議論もあります。現実の国際政治は、条約文言・当時の国際認識・後続の合意・各国の立場が重なって動きます。
A. 一般的な理解として、条約が書いているのは日本の「放棄」であり、帰属先を明記していないため、条約文言だけで“返還先”を断定するのは乱暴になります。背景には「どの中国を中国と書くのか」という政治問題がありました。
A. これもまた言い切りは危険です。「条約が帰属先を書いていない」ことと、「国際政治上の地位が白紙である」ことは別問題だからです。各国の承認関係や、その後の合意・実務(国交正常化や関係法令など)を含めた複合的な整理が必要になります。
A. 1951年時点では中国代表権が割れており、招けば必ず“もう片方”が反発する状況でした。さらに朝鮮戦争・冷戦の文脈で、西側主導の講和構想とPRCは敵対関係になっていたため、政治判断として参加が困難でした。
A. そのようには通常整理されません。条約は署名・批准・発効という国際法上の手続きを経て成立します。ただし、東アジアの一部論点が条約で“完全解決”にならなかった、という意味で「不完全」と評される余地はあります。
サンフランシスコ講和条約は、日本にとっては主権回復の出発点であり、戦後秩序への復帰を可能にした決定的な文書です。一方で、中国が参加できなかった(参加させなかった)ことは、東アジアの戦後処理を一本化できず、台湾をめぐる論点などを「後から埋める」形にしました。
この記事の要点(3行まとめ)