全国各地でクマによる人身被害のニュースが相次いでいます。特に、北海道のヒグマ、東北や中部地方のツキノワグマによる被害が深刻化し、山菜採りや登山中、さらには住宅地近くでも目撃が続いています。こうした状況では「なぜ駆除(殺処分・捕殺)しないのか?」という声が多く上がります。しかし、現場では「見つけたら撃つ」という単純な判断はできません。背景には法制度、倫理、生態系、地域社会の問題など、多面的な要因が絡み合っています。本稿では、クマを“なぜすぐに駆除できないのか”という問いに対して、現実的な事情と今後の方向性をより深く掘り下げて解説します。
日本では、クマは「鳥獣保護管理法」により保護対象の動物とされています。この法律のもと、野生動物を捕獲・殺処分するには、明確な理由と自治体の許可が必要です。緊急避難的な場合を除き、個人が独断で駆除することは原則できません。さらに、銃の使用は厳しく制限されており、住宅地や学校周辺では安全基準を満たさない限り発砲できません。自治体側も「駆除決定」の責任を負うため、慎重な手続きと住民への説明が不可欠です。
単純に個体数を減らすだけでは被害を抑えられないというデータが積み重なっています。クマは縄張り意識が強く、ある個体を駆除しても、その空いた縄張りに別の個体がすぐ入り込みます。さらに、出没の原因となる「誘引源(食べ残し・果樹・ゴミ・放置農作物など)」が放置されれば、別のクマが人里に降りてきて被害が再発します。つまり、根本原因を除去しない限り“いたちごっこ”が続くのです。
クマは「森の循環を支える存在」として、種子の拡散や腐植の形成、昆虫の生息維持などに寄与しています。過度な駆除は森林生態系を不安定化させ、長期的には土壌や樹木の更新にも悪影響を及ぼします。特に、個体数の少ない地域では局地的な絶滅のリスクも懸念されています。したがって、行政や研究者は「人の安全」と「森の保全」のバランスを慎重に取る必要があります。
近年、「命を守るのは人間だけではない」という倫理観や動物愛護の意識が高まり、安易な駆除への批判が強まっています。実際、駆除後には「なぜ殺したのか」「共存の努力はしたのか」といった抗議が寄せられることもあります。自治体は住民や環境団体、学識経験者との協議を重ね、社会的な理解を得てからでなければ駆除を決定できません。行政判断の遅れの背景には、こうした“倫理的調整”もあるのです。
現場では、駆除を実行できる人材の減少が深刻です。ハンター(猟友会)の高齢化が進み、若手の担い手が少ないため、夜間出動や長時間の捜索に対応できない地域も増えています。さらに、住宅密集地では発砲の安全確保が難しく、麻酔銃や罠を使う場合も訓練・装備・薬品の管理などが必要です。これらの条件が整わない限り、駆除の実施は現実的に困難なのです。
駆除はあくまで「最終手段」です。実際には、駆除を行っても出没が続く地域が多くあります。原因の多くは、人間側の環境変化や生活習慣にあります。山間部で放置された農作物、家庭菜園の果実、放置果樹や生ゴミなどがクマを引き寄せているのです。さらに、温暖化の影響でドングリや山の実りが不作の年には、クマが餌を求めて人里に下りるケースが増加します。つまり、クマの問題は「森の変化」でもあり、「人間の生活圏拡大の結果」でもあります。
クマは単なる脅威ではなく、森の豊かさの象徴でもあります。彼らの存在が示すのは、私たちの生活圏がどれほど自然と隣り合わせにあるかという現実です。人里近くにクマが現れる背景には、里山の管理放棄や過疎化も関係しています。昔は里山が薪や炭、山菜などで活用されており、人が定期的に山に入ることでクマも人を避けて暮らしていました。ところが現代では、山が放置され藪が繁茂し、人とクマの距離が急速に縮まっています。
行政や警察が「捕殺ではなく追い払い」と判断する場合、その背景には明確な理由があります。住宅地での発砲リスク、住民の心理的影響、世論の反応、再発リスクなどを総合的に判断して決定されています。また、追い払いを行う場合にも訓練を受けた職員が「負の学習(人を怖いと学ばせる)」を目的として実施します。これは「共存」の実践であり、短期的な安全よりも長期的な共生を目指す取り組みです。
「なぜ駆除しないのか」という疑問の裏には、人の安全への切実な願いがあります。しかし、現実には法制度や倫理、生態系への配慮、そして現場の限界が存在します。駆除は即効性のある手段ではありますが、持続可能ではありません。被害を減らすためには、以下のような複合的アプローチが欠かせません。
クマの問題は“自然の侵入”ではなく、“人の領域拡大が生んだ共存の歪み”でもあります。だからこそ、安易に殺さず、冷静に管理し、自然と人が共に生きる道を模索することが、今求められているのです。