映画『子宮に沈める』は、現実に起きた衝撃的なネグレクト事件を基に制作されました。そのクライマックスで登場する「赤い糸」は、本作を象徴する重要なモチーフです。本記事では、その赤い糸が持つ意味を多角的に掘り下げます。
赤い糸は、物語全体を貫く「母と子の絆」の象徴です。由希子が編むマフラーの糸は、へその緒のように母と子を繋ぐ存在を暗示します。しかし、その絆が最終的に悲劇によって断たれることで、母親としての役割が崩壊する様を表しています。
日本文化で「運命の赤い糸」といえば恋愛や縁を結ぶ存在ですが、この作品ではそのイメージを裏切り、母性の重圧や孤独、そして破滅を暗示しています。愛情の象徴であるはずの糸が、子どもたちを死に導く象徴へと転じるのです。
クライマックスでは由希子が赤い糸と共にかぎ針を子宮に刺す仕草を見せます。これは母性そのものを断ち切りたい衝動や、自分への罰、あるいは母親である自分への憎しみとも解釈できます。さらに、その行為には自らの罪の意識を肉体に刻み込む意味や、過去への決別を示す要素も含まれていると考えられます。子宮は命を育む場所でありながら、由希子にとっては呪縛の象徴ともなっています。また、この場面は観客に強烈な不快感や戸惑いを与え、母性や家族という概念に対する根源的な問いを突きつける演出でもあります。
劇中には赤い糸で繋げられたてるてる坊主が登場します。これは本来「晴れ」を祈る存在ですが、作品内では家庭の不穏さや破綻の象徴に変わっています。赤い糸が「家族の絆」という幻想を断ち切る象徴になっているのです。
『子宮に沈める』が問いかけるのは、母親という役割に対する社会の期待と現実とのギャップです。赤い糸は、母性の美化や家族の理想像に疑問を突きつける存在であり、母であることが必ずしも幸せではない現実を残酷なまでに突きつけています。
ラストシーンの由希子は、赤い糸を手に窓を見つめています。その視線は外の世界を見ているようでありながら、自らの内面に沈んでいくようでもあり、深い孤独と絶望が感じられます。赤い糸を持つ手は、母性への執着なのか、それとも断ち切ろうとする抵抗なのか——その解釈は観る者に委ねられます。
赤い糸は、この映画を単なる事件の再現にとどまらせず、母性の神話や家族の幻想を突き崩す強烈な象徴です。その背後には、社会が女性に課す過剰な「母であれ」という期待が浮き彫りになります。映画を観た方は、ぜひこの赤い糸の意味を改めて考えてみてください。